「月の輪古墳」に思う

岩手のあちこちに「明治天皇御巡幸」を記念する立派な碑が立っている。意味を知ってかしらずか献花されてたりもするのだが、実際の巡幸の記録を天皇側に求めると、仙台以北の北東北に関しては「野蛮人か」「蝦夷と見分けがつかない」「淫行跋扈し民度低ぅー」など、さんざんに書かれている。そんな巡幸の「記念碑」をありがたがって崇めたててしまう南部人の「ねじくれ」方はやはりただごとではない。坂上田村麻呂の時代じゃないのである。明治時代の話だってのに。
平泉から北の岩手沿岸から青森東半分をオレは勝手に「トンデモ王国」と呼んできた。東日流外三郡誌を生んだ五所川原付近、後南朝伝説が残る下北半島義経北行伝説が見事な線を描く三陸から北、キリストの墓やピラミッド、ナニャドヤラで有名な田子近辺(十和田湖周辺には関連遺跡?が多い)、「日本中心」と書かれたいわゆる「つぼのいしぶみ」。これらのうち、義経を除けば戦国期南下するまでの南部領と見事に重なる。なんでじゃ?となった時頭に浮かぶのが、最初に書いた「ねじくれ」であったことは、予断そのものだが、自分の中では確信と呼んでいいくらい「自明」のことになっていた。
強烈に覚えているのは東日流外三郡誌での北東北の狂乱ぶりである。田沢湖にほど近い仙北郡の古い社が「由緒ある荒覇吐神の神社であった」とする和田喜八郎(偽書事件の「犯人」)の出まかせにのっかり、地方自治体がおおはしゃぎで社を改築。そのお披露目には地元政治家らがわんさか集まりニュースにもなった。和田が「ウン千年前の祭祀道具」と言い張った壺が検証もなく博物館に陳列されていた。三内丸山で折しも縄文ブームだった頃、県含む多くの自治体がこの「まつろわぬ文明」の物語に酔い、しまいにゃ「あなたは後三年の役で源氏と戦った安倍一族の子孫だ」というまたしても和田の出まかせに喜んだ安倍晋一郎(安倍晋三の父)が五所川原の北東にある荒覇吐神社(今は立ち入り禁止になっている)に参拝までしている。
地方にとり、伝説はその真偽に関わらず客を呼ぶ道具であった。その稀有なる成功例である「キリストの墓」の二匹目のどじょうでも狙ったのかもしれない。しかし、よく言われるようにあの狂乱には「中央に対する東北の誇り」なる情念がべったりとくっついており、未だに八戸の図書館には東日流外三郡誌の関連書籍がたくさんある。
かつては自分もそういう動きに批判的だった。もともと東北人ではないという意識もあったのだろうが、和田の化けの皮が剥がれた後になっても「三郡誌」を誉めそやす連中をわざわざネットで検索してはツッコミを入れたものである。
その指向が明らかに変わったのが震災。「日本国はなにもしてくれない」という圧倒的な現実の前で、どうしても「東北は」という主語での物言いが増え、まるで自分がどこかで東北人を代表しているかのような気持ち悪い境地になっていた。
そこをだろうね、昨日、フォローしている考古学者の方に見事突かれた。
なんか、非常に恥ずかしくなり、「考古学者は地域を見捨てない」「月の輪古墳の話を知っているか」という言葉に矢も楯もたまらずのっかったのが今朝。ググると学者から自治体、教員に地元住民まで巻き込んだ「月の輪方式」と呼ばれる画期的な発掘事例について語る近藤義郎「月の輪古墳」なる本が、その発掘方式について語られた章までGoogle Booksで読めるようになっていた。吃驚。
読んでいてまず反省したのは「発掘は運動である」ということ。意義を説き、多くの組織を動かし、全国に協力を求めることで大規模な発掘を成功させた先人に比べ、「中央はどうせ何もしてくれないよ」と斜に構えた自分の物言いがいかにみすぼらしいものか。そこに気付かせてもらっただけでも、フォローしているすずきかおりさんには感謝の言葉もない。
しかし、と思い直す。月の輪古墳の発掘に情熱を燃やした彼らのモチベーションはどこにあったか。戦後間もない1953年、地域を見下ろす山のてっぺんにある権力者の古墳を調べるという行為には「自分らの中に巣食った皇国」を自分らの手で暴くという代償行動的な情熱はなかったか。そう考えるとやはり気持ちは揺れる。「暴く」と「捏造する」は真逆の行為だが、「今の自分らを肯定するために歴史を利用する」情熱には変わりない。「東北文明」なるでっち上げを東北人が回避できるようになるために、なら我々がすがるべきはいかなる「歴史」か。そもそもすがりうるものが歴史に見つけうるのか。
以前のような中央への劣等感とはより一層距離を置かなければならない。そうしつつ、私が常に求めるのは「歴史」と「物語」と「生活」の距離感だ。劇作家ヅラしていた昔から「偽書」を題材に何度も試み、書ききれず、筆を折るきっかけともなったこの課題はまだまだ消化し切れるものではないらしい。