vsトンデモの日本史学

vsトンデモ、という観点で考えた時、今学者にとって共通認識となっている「日本の歴史」は有効か。
いや、有効ではないのではないか?
という疑念が未だに拭えなかったりする。
安倍政権の指示により外務省が行った南京大虐殺についての研究が、今さらながらに話題になったのだが、あれを見てもネトウヨは黙らないという現実をまざまざと見せられた。
出所も、人選も、内容も、多分これ以上なかろうという代物にも関わらず、あっさり黙殺。これ、結構ショックだった。
前にも似たようなことを書いた気がするが、およそ学問というのは「誰にとっても正しい」事実を掬い上げる営みである。そのために検証可能とかいった原則がくっつき、学問ごとに方法論が鍛え上げられて来た。なのに伝わらない。「読めば分かる」が通用しない。正直言って恐ろしい。
あれって要するに「歴史学が敗退した」ということじゃないんかい?
自分が大学で地理学に行ったのは、地理学はあらゆる文系学問のうち唯一「定理」があるからである。なぜそんなもんが必要だったかと言うと、自分がガキの頃、わりと「ムー」とかに出て来るトンデモ史観に夢中になっていた過去のせいだ。古代核戦争はなかった。ふむ分かった。けど証明されたんだろうか?歴史学はそれをきちんと証明したかというと、実は黙殺しただけであった。否定の証明が成されたわけではなかった。
あらゆる戦後の成果を俯瞰して、自分の中で歴史観を構築していくしかない「歴史学」に危うさを感じたのである。はっきりとした「定理」が欲しかった。それがないものなら正直、文学にでもハマっていた方がよほど身になると思ったのである。
大学生であった時、身の周りで東日流外三郡誌という大偽書事件があった。「東北の誇り」なんて言葉にダマされて偽書作成者である和田某を信じて、各地にアラハバキ神社を建立してたのは身近な痴呆自治体である。和田によって「つくられた」遺物を後生大事に展示していた博物館まであった。学芸員は何をしていたのかという話である。
んなバカな。オレも信じやすい方だがガキの頃とは違う、きっとすぐ批判が出るだろうと思っていたのだが(何しろ内容が内容だ)、学会としてはほぼ黙殺であった。結果古田ナントカという学者?がいつまで経っても和田某の肩を持ち続け、未だにアレを支持する言説がネット上にごろごろしている。
これも東北での話だが、ゴッドハンドの藤村某の件は、ことの大きさが大きさだけに徹底的な批判が行われた。考古学という学問自体が疑われたわけだから無理もない。無理もないのだが、なら和田某の東日流外三郡誌は黙殺でよかったの?という話になる。確かに名のある学者であれを支持した者はいなかった。しかしそれは「歴史学はそんなデマにまどわされません」で済む問題だったのか?
そういう疑念が自分の中では「南京」に一直線に繋がっている。
おいらがお膝元岩手は飢饉で有名だ。しかしなぜ有名かといえば、森嘉兵衛という研究者による南部藩の失政断罪論文が、のちの飢饉研究の端緒になったからでしかなく、当時の南部藩だけが飢饉に泣いていたわけではない、なんて話が2ちゃんねるですらされている。重ねて地元ネタだが、ここ数年ハマりまくっていた奇書「東北太平記」というのがある。大塔宮の忘れ形見が下北半島に国を作って南朝の支持者であった八戸南部氏に保護されてきたが、中央政権に反旗を翻し、韃靼人ら多くの兵隊を輸入。ホテレス砲なんていう近代兵器まで持ち出して南部家と大戦争をやらかしたという荒唐無稽な歴史書?だが、まともに中央で研究すらされておらず、郷土史家好事家の慰みものにされた。それだけで済んでいればいいが、八戸の図書館に行くと多くの「日本史」本の中に「東北太平記」が言及されてしまっている。一度その蜂起軍に占領されたことになっている七戸城には「この占領以降力を失った」と、地元教育委員会が建てた看板に明記されちゃってる。(ぶっちゃけ、歴史に対する青森県民のこの風土が東日流外三郡誌を生んだんじゃないかとオレは思う)
本当なのか?嘘なのか?はっきりせんかい!という声に対して、いかに日本歴史学が無力であったか。「分かってないよ」のひとことで片づけてしまってよかったのか。南京大虐殺はなかったとかナンだとか、こういうトンデモ言説は起きるべくして起きたと言えはしないか?
最後に、またしても本屋での経験を書いてしまうが、明智光秀実はこうでした。源頼朝肖像画はウソです。などなど、いわゆる「教科書に書かれているような歴史」を覆す本というのは常に出て来る。玉石混合で、きちんとした出自のものもあればそうでないものもある。しかし「南京」とか「日本は正しかった」といった露骨な政治的意図のある本を除いても、「これが今最も正しい日本史ですよ」というのを書店員が書棚で表現するのは不可能に近い。客には分かるわけがない。
この体質はやはり、なんとかしなきゃいかんのではないかと思うのである。