説教する憲法

さすがにもう黙っていることは害悪のレベルなんでどこでもいいんで書いて置く。
自衛力を持たない国家はダメだのなんだのと声高なエンゼツが聞こえて参りますが、じゃああんたは「国のため」に人を殺せるのか。
人を殴るのは、殴る方も殴られる方も痛い。憎さ余って首でも締めようもんなら、その感触が後々まで蘇って来て不眠を誘う。まして相手の息の根を止めようもんなら一生消えない傷のひとつやふたつはできる(はず)。もちろん相手の家族や仲間に対しては何代にも渡るダメージとわだかまりと憎しみを植え付ける。
人ひとり殺すだけでこうなんだが、それを「国家のために」やれ、と言われて、首を縦に振る人間なんて本当にいるのか?オレは死んでも御免だよ。
私は日本が大好きだ。大好きな人もたくさんいるし、大好きな場所も、風習も、季節感も、生んできた文化も、しみじみと感じ入るほどに好きだ。それを守れるものなら人柱のひとつやふたつ(ってふたつは無理だけど)に我が身を差し出していいくらい好きだ。
が、自分の好きな日本と、日本政府という組織は、どうやら別物であるらしい。景気回復と称して施行された政策は自分の好きな風土を破壊するだけだったし、「いざなみ景気」とやらの恩恵を受けたのは中央の一部の人たちだけだった。東北のいち地方都市で「いざなみ景気というのがあったらしいよ?」なんて聞いてごらんなさい。ハナで笑われるだけだろう。「それどこの国の話?」と返されるだろう。日本政府は自分らを蚊帳の外に置いて好景気を満喫したらしい。その「日本政府」が「国のために人を殺して来い」と言ったとて、上段に書いた悲嘆や苦しみを自分だけでなく他人に強要してまで従うだけの義理を自分はあまり感じない。当たり前のことで、自分をないがしろにした奴がいきなり主君づらであれこれ指図して来たとして、はいはいとなんでもやっちゃうほど日本人はお人好しではないのだ。南北朝の動乱下剋上が花開いた戦国時代のことを考えてみればいい。
国家は、少なくとも近代国家という組織は、主権者たる国民のために身を粉にして働く裏方であるべきだろう。第二次大戦でボロ儲けし、その小物ぶりから東京裁判にすらひっかからなかった親族を持ち、いつか自分もとこどもの憧憬を追い求める「指導者」の自己表現の場ではない。彼は国民の八割がたが戦地に赴いたり疎開したり空襲を受けたりといった悲惨を体験した時期に羽振りのいい暮らしができた、特殊な家族の出である。戦争を始めたとて、彼は自分の子孫が人殺しに赴くことなんてカケラも想像していないだろう。それは私の知る日本人ではない。
家族を大切にしろ、みたいな条項を憲法に盛り込むらしい。彼や、彼に連なる人たちは、自分らが特殊な「家」の一員であることをことさらに強調したいらしい。そういえば「東日流外三郡誌」の詐欺師和田喜八郎に「あなたは安倍貞任の子孫なんです」なんて言われて無邪気に喜んでたのは確か安倍信三じゃなかったか。「おめーらとは違うんだよ」と、いくらでも吠えればいい。核家族化した戦後を否定してあるべき家族のかたちを追い求めればいい。
けどあんたの知る家族と、自分らが知る家族って、あまりに違うんだよ。あんたらはあんたらの世界で戦争でもなんでもやってればいい。いやそれ以前に「我が一族みたいになれ」と市井の人たちに言ったって笑われるだけだからって、憲法に書き足して従わせようってどういう神経だ。