石津の戦いの日

盛岡を治めた「南部家」は今で言うところの山梨県南部町の出。源平合戦における「甲斐源氏」の一派だったという。平泉攻めの勲功で奥州を手に入れ移住した、なんて話が流布しているがこれは誰にも信じられておらず、しかし鎌倉末期にはそれなりの南部勢が奥州にいたことは確からしい。
戦国大名としてもパッとせず、南部藩といえば飢饉見殺しやら盛岡城下への農民立ち入り禁止など悪名ばかりが聴こえるが、この一族が一番全国に名を轟かせたのは南北朝の時代。後醍醐天皇南朝に異常なほどの忠誠を見せ、公家武将として大塔宮と知名度を二分する北畠顕家の右腕として奥州でならしたのが南部師行。「東国平定及び西上を命じる勅書」なる後醍醐の無茶振りに応じた顕家に付いて鎌倉を落とし、京都まで迫るも一度は破った高師直ら足利勢に追い詰められ、顕家とともに戦死したという。この最後の戦を「石津の戦い」といい、6月10日。つまり今日のことだったそうな。
言ってみれば、奥州の豪族が京都という中央に日本史上最も肉薄した日が今日ということになる。
最もこれは現在の南部を前提としたイメージで、当時はまだ甲斐に残った南部の一党もおり、それぞれが共闘していたそうだからまだ「南部家」といっても奥州どんづまりの一族というイメージはなかったのかもしれない。しかし東北という辺境について思うとき、この時の南部家の活躍にはどうしてもひいき目が出る。特に八戸南部は最後まで北朝に帰順しないかった一党で、下北半島には「大塔宮の忘れ形見が建てた後南朝王権が叛乱を起こした」などというとんでもない伝説が残っている。
司馬遼太郎太平記の時代を好まない理由として「全国の勢力があくまで目先の利益に釣られて北朝南朝とめまぐるしく支持を変えた節操のない時代であった」と書いているのを読んだ覚えがある。本当かどうかは知らんが、もしそうなら南部家の南朝への忠誠はやはり異常と言うしかない。
ひとつには八戸南部の祖である実長が熱狂的な日蓮のファンで、自領であった身延山をまるまる日蓮にくれてやるほどのパトロンであったこと。南朝がその日蓮の一派の京都での布教に協力的だったことがある(八戸南部だけの話であり、現在宗家とされている三戸南部の菩提寺曹洞宗。八戸の血を引く遠野南部の菩提寺は今でも日蓮宗だ)。しかし南部師行らの足利幕府へのたてつきっぷりを眺めていると、どうしても中央への「なんぼのもんじゃい」的な気炎を妄想せずにおれない。ちなみに鎌倉幕府の中で最も「源氏」の血が濃かったのが足利。頼朝の一族をダシ抜いて実権を握った北条氏が後ろ盾にしたのが武田や南部ら甲斐源氏である。血なんていう覆しようのないものに決定的に縛られていた時代、傍流は常に外から中央を眺め、中央が自分らの上に立つべき器かどうかを推し量っていたのではないか。マア、あくまで妄想ではあるが。
どうでもいいけど、北畠顕家らの奥州小幕府は、多賀城を追われて以降霊山に置かれている。東北新幹線が宮城方面から国境のトンネルを抜け福島県に入ると左手に間近に見える山がそれで、ふもとには「あの」飯舘村がある。今となっては霊山中腹にあったという山塞を見に行くこともかなわないだろう。また、一度足利尊氏を九州へ追いやったあと奥州に戻ろうとした一行が攻め落としたという「小高城」というのも当然南相馬郡のアレである。後南朝伝説に惹かれ、学生時代から何度も通った下北半島は今や原発地帯としか言いようがない地域になってしまった。
政治的にも、歴史的にも妄想に過ぎないが、どうしようもなく「反中央」であった東北の血というものがあるなら、今おいらをウツウツとさせているのはまさにそれだ。
ふざけたことばかりしてると、攻めるぞコラ。