おらが手を出せる分野ではないが、書かせてもらう。

ヒロシマ語り部に「死に損ないのクソジジイ」と叫んだ修学旅行の中学生の話。歴史修正主義の「成果」とは思えなかったのは、その場合「死に損ないのクソジジイ」という台詞にはまずならないだろう、という読みがあったからだ。おいらの拙い読みは珍しく当たりであったらしく、語り部である森口氏が、事前にその中学生に対し態度のことで厳しく注意していたという。
私はあくまでこの件を、森口氏と中学生とのディスコミュニケーションの問題として捉えたい。というのも、そこに歴史問題や政治を絡めれば絡めるほど森口氏の「怒り」と中学生の「ムカつく」の解消から遠ざかる気がするからだ。口下手な奴なら身に覚えがあるだろうが、人と人の間で何かしらの衝突があった時、場を収めるのは動物的な反射(要するに「詫びる」という態度を口先だけでなく心(それを反映した肉体)で表現できていたか)が大きい。怒りなんてものはほっとけば消えるものだが、そこで微妙な理屈をこねればこねるだけ、怒りは収めるタイミングを失い顕在化することになってしまう。そこをうまく収めない限りは、せっかくの平和教育の機会もぶち壊しになるだろう。
育鵬社教科書を採用していた横浜市の中学生だったということが一部に過剰反応を生んでいたが、もし仮にそれが真相だったとしても森口氏と中学生の溜飲は下がらないんだよね。
ネトウヨ教科書がこの件に悪影響を与えていたとしたら、それは生徒じゃなくて教師の方じゃないか、と思っている。自分とこの生徒が貴重な語り部さんに暴言を吐いたなら、なにはともあれ教師が詫びを入れ、中学生だと多分できないであろう相手の気持ちのフォローまでを担うのが当たり前なのだが、そういうことは一切なく、森口氏は後日学校に抗議を入れなきゃならなくなった。普通なら当たり前にあるはずの教師のリアクションが、なぜこの件においては全くなかったか。そこにネトウヨ的思考が潜んでいたりはしなかったかを疑う必要は大いにあると思う。
最後に、特攻生き残りへのインタビューに対するこのようなコメントを見ている限り、今の日本の「平和教育」は完全に飽きられている可能性を感じずにおれない。まとめサイトの元ネタは門田隆将の「太平洋戦争 最後の証言」で、この本自体は右でも左でもないのだが、作風がドラマチックな門田氏だから「感動」してしまう人が出る。美しいと思う人も出る。これは仕方のないことだし、ヒロシマの被害者の話より「ワクワク」してしまう題材であることは悲しいかな事実なのである。
そこに「国のため」とか「平和のため」とかいう政治を持ち込むことは、子どもにとってよいことだと私は思っていない。川村毅がダッハウ収容所で感じたという「安易なメロドラマにさせない分、見学者に複雑な思考を強いる」雰囲気に日本の平和教材がなぜ至れないか、それを考えると「平和のため」「国のため」連発に原因を求めたくなる。