これまでのあらすじ

なんだかんだでこのブログもぶつぶつといろんなことを書いて来た。今後は今まで書いたことの繰り返しになる局面も多くなるだろう。その前に一応、「このブログは何を言っているブログだったか」を大雑把にまとめて置く。

原発にまつわること。

脱原発原発事故補償は別なもので、どちらも重要だ。ところが案外並び立たない。並び立たないという現実認識は必要。
原発は現時点でノーだが、使用済核燃料と廃炉までを見据えた経済効果の検討、天災、人災を含めた安全対策の練り直し及び事故となった時の対策についての研究は続けてくれないと困る。逆に、その上でないと再稼働なんて口が裂けても言えない。
つか、福島第一の放射能漏れを止めようとしないでいる現状は耐え難い。それで除染など金をドブに捨てているようなもの。
放射能の人体への影響については早急にオープンな研究が行われなければならないし、それを国民が周知しなければならない。現状は「分かっていない」でしかない以上あらゆる言説が「風評」の域を出ない。
医学、疫学サイドがはっきりした結論を提示しない以上「医学疫学の名を騙った風評」ほど始末に負えないものはないし、それを言うガクシャは一切責任を感じていないからアテにするだけ損。
せめて放射能の影響を心配する者に出来る限りオープンなかたちでの検査を受けさせる体制を作らなきゃダメでしょ。

戦争にまつわること。

戦争は人殺しの集積であり、かつ国民のほんの一部だけが儲かる仕組み。
現代において「国民みなのための戦争」なんてものが行われたためしはない。
太平洋戦争もそうだったのに、その一部のために犬死した国民を「国のために戦った」などと言い換える奴には殺意すら抱く。
「この国のためなら死んでもいい」と本気で思えるようなものを当時の政府が持っていたのなら彼らの犬死ぶりも多少報われるが、情報操作と同調圧力で押し切られただけ。国のために死ねと言うなら「この国のために死んでもいい」と本気で思えるだけのものを政府は持て。ウソとごまかしで殺される人の身になれ。
それで「英霊」とか靖国とか、ふざけんじゃないよ。
んでもって戦争で甘い汁吸った連中の子孫が今政権を握ってる。満州で暗躍した某のの養子とか特高のボスの息子とか吉田茂の孫とか。彼らに前線に立った兵士の気持ちが分かるはずねーべ。
太平洋戦争を「アジア解放」の戦争だったと騒ぐ輩は、「当時」を神聖視している現政権の連中が沖縄や福島にしていることを見ろ。あれが「帝国主義政策」でなくてなんなのだ。連中の言う「解放」など信じようがない。
土地も資源もなく原発事故で国土が侵されたような国に侵略して来る物好きな国なんてない。あるとしたらその位置の持つ戦略的な意味を考えてのことだろうが、アメリカと中国が接近している現在日本の「米国前線基地」としての価値など失われつつある。侵略の危機などと言われて信じられるものではない。

歴史についてのこと。

戦争であれだけ嘘ごまかしにノセられて来た知識人の終戦時の絶望はハンパなかった。だからこそ嘘ごまかしに基づく「体制のための」歴史を否定して戦後の歴史学は発展して来た。自分らが、自分らの生業に誇りを取り戻すため、体制のためのヨイショを忌み嫌い、事実をひたすら積み重ねようとがんばって来たその成果を「自虐史観」とは笑わせる。
歴史は厳密な科学ではなく、その方法論は未だまちまちである。それゆえトンデモとたやすく結びつくが、少なくとも戦後の日本の歴史学は非常に厳格なものだった。しかし戦中の歴史解釈に限らず「トンデモは無視」という姿勢でよかったかは疑問。無視されてる間にバカがはびこった。

人間についてのこと。

人間は論理だけでは動かない。だからロンリロンリと主張するだけで「国を憂いてるんだオレは」みたいな顔してるやつは信用しない。国なんて非論理のカタマリたる人間の集まりじゃないか。その前提を無視して何ができる。
逆に「ものごとを動かす時原則論気にしてたら何もできねー」という意識が多くの国の歪みをつくったことは否めない。論理「も」必要
人から頭を下げられる人は、頭を下げられるだけのことをその人たちにした人だ。企業などあらゆる集団の「経営」に携わる人間が、構成員を見下すようになったらそんな奴にアタマ下げる必要も敬語使う必要もない。
人には生き甲斐が必要である。生き甲斐が欲しくて働いている。過度の効率化や内部統制は人が働く原動力であるところの生き甲斐を奪う。
んでもってそういうことがよくわかっていない人が今経営やってるというケースが非常に多いようだ。竹中平蔵は「貧しくなる自由は認めるが成功した者の足を引っ張るな」というが、貧しい人の足を引っ張ってるのは税金に助けてもらわないと存在すらできなくなった役立たずの大企業であることは明白。人間というものをナメ過ぎ。