怒りは相手にぶつからなきゃ意味がない

おいらの国はどこまでだべ?という素朴な疑問がある。バリバリの首都圏に生まれたくせに、岩手に移り住んで20年以上すると、例えば昨日の話のような歴史ものを眺める際、気付けば中央政府に相対する東北という構図を無意識に欲しがるようになる。東北を縦断する国道4号を走って東京に至ると、日本橋に植えてあるシュロだか椰子だかのテカテカの葉っぱを見て感じるのはもはや「異国」の手触りだ。だから非東北人がもはや福島の話題にリアリティをもって接していないと言われても「無理はない」と感覚的に分かるのだ。おらも雲仙普賢岳の噴火で大きな被害が出たと聞いた学生時代、「あら大変」くらいの感想だったものな。フィリピンの災害へ感じるシンパシーとどこが違ったかと問われればかなり怪しい。
これが例えばしょっちゅう海外へ出ている人だと違うのだろうか、とも思う。しかしそうまでして「日本」であることのアイデンティティを自分の中に強調する意味あんの?とも思う。大体一週間くらい海外旅行して来た奴に限って「○○人はバカだから」みたいな分かったようなことを言いたがるものだ、という経験的な嫌悪がそれに拍車をかける。
敵とか、味方とか、そういうレベルの関係にならない限り、自分の中にだから、国境なんていらんな、と、思う。
そして、敵見方にはっきり分けられる場合、相手が「日本人」であろうがなかろうが、そんなもんは関係ないな、とも思う。
地方都市で暮らしていると中央への対抗心というのはどうしても出て来る。自分がこの町でそれなりに評価を得た、けど東京へ出れば屁ほどの扱いも受けないかも知れない。若い子の多くが東京へ流れて行くのは別に「産業がない」「仕事がない」だけの理由ではないのよ。そこにあるのは自分が必死でやって来たことへの自負と、それが広い世界でどれだけ通用するか、という恐れにも憧れにも似た気持ち。要約すると「東京なんぼのもんじゃ!」という言葉に帰結て行く。辺境の人間にとって中央というのは常に仮想敵なのだと言ってもいいかもしれない。
これは正しい中央と辺境の関係ではあるが、怖いのは中央の求心力が失われた時だ。実は最も身近な「敵(国)」である中央に「好き勝手されている」という気分に至った時、その鬱屈を発散する場がない。このことは国だろうが人間関係だろうが企業内政治だろうが関係ないのであろう。上に立つ、中央に居座る者がウンコだった時、その「仲間、同類」とされるのが恥ずかしくなった時、実は最も鬱屈を溜め込むのは中央そのものではなく、辺境だったり窓際だったりにいる者なのかも知れない。
俺らの上に立っていたいなら、最低でもみっともない真似すんなや。こういう鬱屈を形ばかりであれ口に出し、発散できるインターネットのお陰で自分らは暴発せずに済んでいる、という面は明らかにあると思う。
これ、結構もったいないことだよな、とも思ったりして。