常識的な「蝦夷」のおはなし

アイヌ、という民族の定義をしっかりとするには「日本人」の定義をはっきりさせる必要がある。
蝦夷、毛人、として文献史料に現れる者たちが今現在で言うところのアイヌであったかは諸説あり、その混乱には「それ」を滅ぼしたり帰順されたりすることで北方へと支配を拡げて行った大和朝廷という勢力が「日本人」という民族と呼ぶに足るか、のちの世まで続いた例えば戦国期の豪族同士による簒奪の歴史とどう違うかをはっきりさせる必要があり、これに関して決定的な史料はない。
とりあえず、本州にもアイヌ語地名が散見されること、言葉の通じない原住民の存在を多くの文献史料が記していることは言うまでもない。これを例えば平安時代には大和朝廷の命を受けた征夷大将軍が征服することでいわゆる「外ヶ浜」までの支配を確立したことに異論はなかろう。鎌倉時代には安東氏が蝦夷地の支配を任されているがこの「蝦夷」が北海道であったかは実はよく分かっていない。はっきりと分かっているのは松前藩史であるところの「新羅之記録」に記された「コシャマインの戦い」の頃にはいわゆる道南十二館が成立していたこと、そこを治めていたのが大和朝廷から任された安東氏であったことくらいである。そもそも「新羅之記録」自体が史料として非常にあいまいなところがあるもので、松前の祖先である蠣崎(武田)は安東を食い破ることで函館近辺の覇権を握っている。この史料を以て「こうだった」と断言できないのは以前おいらが夢中になった「東北太平記」と似たようなもので、しかし、当時のその地帯の文献史料が極端に少ないためこれらに頼らざるを得ない。
コシャマインの戦いで重要なのはその名の通り「コシャマイン」という和人にあるまじき名前と、それを鎮圧したのが「朝廷から任された」という立場の安東氏と「若狭武田の子孫」と称す武田(蠣崎)信広であったことだ。和人とは別の文化を持つ一群が、大和朝廷の命を受けた(と称する)一族と戦い、鎮圧された。これはその後の戦国時代のような和人同士の陣取り合戦とは明らかに違うところである。
そも、鎌倉幕府崩壊の一因とされる安藤氏の乱(安藤は鎌倉期の安東氏の名)のきっかけは外ヶ浜近辺における「蝦夷の大蜂起」である。それを鎮圧しそこねた鎌倉幕府の衰退、という流れを見れば、そこに「大和朝廷とは相容れない原住民」の存在をはっきりと感じ取ることができる。もっと言えば坂上田村麻呂と戦った「アテルイ」という名前を見ても、そこに和人とは違うアイデンティティを認めることができるだろう。
とりあえずここまで見れば少なくとも「大和朝廷が北へ勢力を拡大する際立ちはだかって来た異民族の存在」を認めることはできるはずだ。
このように大和vs北方の異民族(蝦夷)という図式は疑いない。しかし蝦夷アイヌか、と言えばそうはいかない。ただそれは「和人とは日本人か」という問題のコインの裏表である。アテルイの地であった岩手県南にのちに覇を唱えた奥州藤原氏前九年の役後三年の役で敗れた「俘囚」の一族安倍氏清原氏の子孫だが、平泉に残るミイラの鑑定では特に人種的には和人との差が認められていない。要するに「俘囚」が人種的に和人と違っていたわけではないということ。じゃあ俘囚は和人だったかと言えばそうも言えないのもまた事実で、それは彼らが大和朝廷に連なる者たちに「俘囚」という蔑称で差別されてきたことと、大和朝廷の命による者らによって征服されたことが端的に証明している。要するに日本民族を「大和朝廷に連なる者」と仮に定義してしまえれば、蝦夷の系譜を「非日本民族」と称するのは簡単なのである。それをしないのは、「民族」という多分に西洋的な発想を日本の中でどう適用していいか、歴史学者がためらい続けたということでもあるのだと思う。
注意しておかなければならないのは、今現在「民族」という言葉を使ったとき、そこに解剖学的な「人種差」は関係ないということ。黒人のユダヤ人なんていくらでもいらっしゃる現在、ナチスが言ったような「人種としてのユダヤ人」なんてのが存在するわけがないし、それは「民族」という発想そのものを否定する。
さて、ここまで書いて来たのはあくまで常識的なこと。
なのにこの常識が通用しない人がなんだか北海道あたりで大騒ぎしていらっしゃる。
彼が言う「アイヌです、と言えば金がもらえるなんておかしい」というのは現在の日本が「多民族との共生」というテーマで考えて行かなければならないテーマではあるのだろう。
しかし歴史をゆがめたり、テキトウな解釈でひっくり返すのはいただけない。そんなん持ち出さなくても議論はできたはずだろう。