民族という概念。

民族差別、というか、民族を民族として扱わないことの暴力なんだろうな。北海道の金子なんちゃら議員問題。
差別というのは差異がなければ成立しないから「もはや同じじゃん」と言うのは差別ではない、というのは一見問題ない意見に見える。アイヌだろうがなんだろうが同じ機会を与え、同じに生きる権利を与えた国にとって、今さら「アイヌである」ことをテコにした訴えごとをされても困る、というのは(あくまで)一見筋が通っている。同じように生きることもできるし、同じように扱われている。なのになんで今さら「アイヌである」ことをアイデンディティにしようとすんだよあんたらは。金子なんちゃらの心中はまあ、こんなところだろう。
しかし日本とアイヌとの関係は征服者と被征服者の関係だ。北海道の先住民族である彼らは、現在国際的な「民族自決」の精神に則るなら「独立したい」と言い張ればそれだけで相当な打撃を日本に与える。民族ってのはそういうもの。そのややこしさがイスラエルとガザで炸裂してる現在、それを軽視なんてできるもんではない。
できるもんでもないのにそれを議員という立場の人がやらかした、というのがまず、金子なんちゃらの大きなミス。
加えて、多民族という異文化を同一国家内で両立させて行くことのコストを金子なんちゃらはあまりに安く見積もり過ぎていること。これの方が罪は重いと私は見る。そのコストとは文化面の施策であり、生活圏という経済面での施策でもあり、テリトリーという行政面での施策であり、罰則規定という立法面司法面での施策でもある。例えばアイヌが鳥葬を行う民族だったとすればどうか、首狩りを行う民族だったとしたら?彼らが「国家」という組織に対して無欲な民族で、かつ日本人の生活様式とあまりガチンコしない生活様式を持っていたというのは偶然だし、その偶然に助けられたのは他ならぬ日本人であることを彼は失念している。
ならなぜそれほどまでに「民族」というものが重要視されるのか。金子なんちゃらの問題提起がそこを撃つものなら、多少なりとも議論の余地はあっただろう。しかしそれは人間の多様性の否定である。RDBMSを扱ったことがある人なら、母データ集合における個々のデータのパラメータがバラバラであることを好まない。しかしそこで愚痴るのは「この世に元素なんて三つくらいしかなければいいのに」と言っているのと同じだ。集計者の都合に合わせて森羅万象が単純化する、なんてことはありえない。しかしそうあってくれ、という傲慢な主張をなぜか、今のロンリロンリな人たちは多くやらかす。金子なんちゃらの暴言はその延長線上にあるのだろうと、おいらは思っている。
人は多くの人間関係の中で暮らす。もちろん人間関係だけでは成立するものではなく、その風土や利便性のベクトルの中、人間関係はその地域で生き残って行くためにさまざまな約束事をつくりだす。そうやって「民族」という単位が生まれるわけだから、これを否定するのは人の「生き残るための共同」そのものの画一化と変わらない。
まあ、たとえばアレだね、文明化された生活でなければ人間とは言わない、みたいな。経済活動に貢献していない人間に生きる価値はない、みたいな。そんな田舎にわざわざ住むからいけないんだ。さっさと東京へ移住しろ、みたいな。
今の日本人が多く言い始めてしまっているこれらの「先進的な議論?」に、少なくとも一世紀以上前の西欧人は既にNOを叩きつけていた。「民族自決」というスローガンを以てして。この事実について今日びの「先進的な言論人さま」たちはもっと考えてみる必要があると思うぞ。