レノンになれないデヴィッド・ボウイ

憲法記念日。キヨシローが「9条はジョンレノンみたいじゃないか!」と言ったせいか、やたらとImaginを持ち上げるツイートが流れて来てなんとも言えない気分になった。共感にうるうるしたわけではない。その逆で
「12月、街はクリスマス気分、あっちこっちから思い出したようにジョンの声」
なる歌詞をわめくアーティストが大好きなこともあるが、この曲の

Now the workers have struck for fame
Because Lennon's on sale again
という歌詞をどうしても思い出してしまうからだ。

労働者階級の英雄となったジョン・レノンは金持ちだ。そういう、どうしようもない皮肉を口にせざるを得なかったのがデヴィッド・ボウイ。彼がレノンを嫌っていたかと言えばそんなことはない。ただ、夢みたいなことを「イメージしてみなよ」と言えちゃうレノンにボウイは同調することはできなかった。あれやこれやと生きて来た労働者としての自分、レノンの言葉はそんな自分の口が説得力を持って歌える言葉ではなかったのだろう。彼は自分の境遇に疲れ、疲れを忘れるために諦念を身にまとい、皮肉を口にする。
これが、なかなかに、甘美だったりするんだよね。
世の中で必死でキーキーやってる人に「付いて行けんわ」と距離を置き、皮肉を投げる。世の「冷笑主義者」と呼ばれてる人もこうやってるんだろうな、というのが分かる。
ただ、ボウイに倣えば冷笑のツイートを並べ立てる彼らは「金持ちだ」。少なくとも昼間っからツイッターで自分の意見を表明してても食いっぱぐれることがない程度には。多くの低所得者は、スマホが普及しているとはいえ、仕事中ケータイなんてとんでもないような世界で日中を過ごす。
その一味である自分は、夜中になって翌日の朝の寝不足を恐れながら一日のTLを眺め、ブログにあることないこと書くわけだが、気持ちとしてはレノンよりずっとボウイに近くなる。
けどアイロニーで人を癒すような才能のないおいらは意地でも世の中でキーキーやってくしかないでしょうよ。ボウイ気取って冷笑だけで何かを語った気でいる連中の醜さばかりが目に付く世の中だ。立ち直れなくなるくらいまで、キーキーぎゃーぎゃー、レノンよろしく夢を語る以外ないでしょうよ。
ボウイみたいに世をすねるのは、とことんまで自分が「負けた」後だ。当時の彼がわざわざ中性的なルックスでぶつぶつ言ってたのは要するに「敗者」である自分の強烈な自覚があったからだろう。
自分はまだそこまで行っていない。自分の現実を闘い抜いてから、そういうことは考えればよい。
せめてレノンの歌に心から共感できるくらいの「金持ち」になりたいよ。まったく。