マイノリティとか

珍しく構造的な話。ただあくまでオレオレ理論。
「社会は今このようになっているから、このような施策を行いましょう」
と、その社会の行政を担う者が言った時、彼らの言う「このような社会」から外れてしまっている者を「政治的マイノリティ」と勝手に呼んでいる。社会を動かす者はものごとを良くしようとして施策するのであるから、それによってよくなった社会と、そこから外れたマイノリティの間には格差と差別が「結果的に」生まれることになる。
なので、多くの格差や差別は、大多数の者に幸せを運ぼうとした善意が「結果的に」生むものだったりする。「差別的」とされる絵本が発禁になったりするのは多くの場合それで、作者の世界の中にその表現で傷つく者がいるという事実が入っていなかったのだろう。
逆に言えば、以前語った「物事を動かすときにいちいち原則論気にしてたらやってらんないんだよ」のおっさんらにとって、差別への自覚を促すことは「自分の行ってきたよいこと」を否定されているように映る可能性があることを考慮しなければならない。「社会のために動く」ことは構造的に「差別を生む」危険性を孕むということ。彼らには彼らの善意があり、かのおっさんにしろ、絵本作家にしろ、結果的に生んでしまった差別をもってその善意まで否定してしまうと可哀想なのだ。そういう繰り返しが「物事を動かすときにいちいち」という経験律になって、共産党ら福祉を訴える者への偏見を生んだと言えはしないだろうか。
(しかしいまどきの「ヘイト」はこれにすら当たらない。自らの主張を積極的な思想とでも思い込まないとやってらんないのかもしれんね。単なる誤解と偏見から生まれた恨みと怒りでしかないのだが。)
去年までのオッサン専門学校生時代、クラスメイトとなった高校新卒オタクくんたちがオレの経歴を聞きつけて、やたらと自分の書いたというWeb小説やら「巷で話題」のラノベやらの感想を求めて来ることがあった。全部、とは言わないが、その多くが「世界なんてこんなもの」という自分目線の「世界観」を有しており、その「世界観」の中で「世界って汚いね、つまらないね」とやらかす自家中毒を起こしていた。
「おまえらが思ってるより何百万倍も世界は広いんだよ。分かったような納得の仕方で「世界」を語って、勝手に絶望してんじゃねえ。もっとでっかい「世界」を知れ」
と感想を述べると
「だって世界の全部を知るなんて不可能でしょ?そうまでしないと人はもの書いちゃいけないんですか?」
という真っ当至極っぽい返答が返ってくることが多く、こちらはそこで常に返答に窮して
「お前が書いたこの世界に、オレは絶対住みたくない。オレは自分が生きているこの世界が気に入っているぞ。その差はなんだ」
などと卑怯な言い訳をしてきたわけだが、「なぜ、人はいろんな世界を知らなければならないか」という問いに、今ならこういう答えをひとつ、用意できる。
自分が無意識な差別を行ってしまう可能性が、知れば知るだけ減るじゃないか。
「食わせる」ことが誇りだった昭和の頃の企業人や政治家、要するに親分肌の人って、やたらと自分が「下々まで見ているぞ」みたいなアピールをしたがったじゃないか。あれはあれでうざったかったけど、いろいろな世界の存在にワクワクし、そいつらみんな自分が呑み込んでみせる、という姿勢はやっぱりありがたかったんだと思うよ。
今はそういう人が「上」にいないってことなんだろうなあ。日本人口の9割が今や、政府にとっての「マイノリティ」だ。