理論武装ってやつ

なんでしちゃうんだろうねえ、理論武装
体を張って闘ってる人が一生懸命哲学者とかを引き合いに出して自分の行いを正当化しようとしてるのを見ると、そんな風に考え込んでしまうことがある。
集団を率いている人なら意志統一には必要なんだろう、とは思う。しかしそこに岩波の白が扱うような思想家をわざわざ持ち出していたりすると、たとえばそれが市民運動なら、彼が分かって欲しい、まとまってほしい人は岩波の白を愛読してるような「一般市民とは程遠い」人たちなんだろうか、との疑念が湧く。意地悪な見方をすると、岩波の白なんて読んだこともない人のことなんか眼中にないんだろうか。
一番嫌な推測は、「運動」をする人たちの心に、岩波の白みたいな世界に対する無条件の憧れみたいなのが根強く共有されているのかも、というもの。そりゃ日本で市民運動が根付くはずもないと考えてしまう。
実際問題恥ずかしげもなく「目覚めちゃったおれたち」みたいな顔してる人や、「意識の高い」なんて形容を自分(ら)に使ってしまう人なんかはそうなんだろうね。世の害悪にしかならないあいつらは。
おいらが今の若い子の運動を支持するのは、それがアタマの中でこねくり出した「思想」の表現ではないからだ。目の前の許せんもののために動く彼らはそれだけで十二分に正しいと思う。思想が先の人は目の前の出来事をいちいち自分の思想に当て嵌めようとしてギロンばっかりしているから結局目の前のナニも動かせやしない。そういうたぐいの「運動」はもう見るのも嫌だったりするんだよね。
まあ、自分らの時代はそうだった。今は違うのかも知れない、という希望はあるが。
理論武装に使われた言葉の解釈どうこうで、つまらんいざこざに巻き込まれ、疲弊して行くことがないように祈るしかないか。