せめて良心は信じようや。

国家規模の騒ぎが毎日起きるのでTwitterのTLを追うだけで何時間もかかる。厚木、大飯、ヘイト教科書、汚染水放流と、今年の十大ニュース級がこれだけ重なれば完全にオーバーフロー。結果的に主観的なつぶやきの多いユーザーはTL圧縮のためにフォローを切ることになる。そんなこんなでフォロー切った方々にはお詫びを申し上げる。って、一次情報が皆無に近く、論理をバカにするような、それでいて笑えないツイートを繰り返している自分は他人事ではないのだが。「情報源」としてTwitterを利用するという(私のような)方法の限界なのだろう。1000単位でフォローしてる人って、どうやって毎日を送っているのか見当もつかない。
仕事でネット繋いだPCの前に座っている人とかのようにTLをきちんと追える場を持つ人のツイートは、一日の終わりに新聞を一気読みするような関わり方の人間が付いて行くのはなかなか難しいという事実。無論あちらから見てこちらのショボいツイートがどのように見えるかも考える必要があるが。それでも興味深い連ツイする人や、ある分野における主要なツイートをまとめてRTしてくれる人のフォローはありがたいから切れない。ならばどうするか、というところに人のアタマの使いどころが出て来る。
自分がそういう発想で動けるときというのは、まだ自分に余裕があるときだ。これが、ダメダメモードになると「○○はそもそも××であるから自分にこういう作業をしいる○○は間違っている」なる発想になり周囲に攻撃的になることを経験上知っている。だから、「○○はそもそも××であるから」的理論を連発する人間はまず信用できない。
できないと思っていたら「集団的自衛権」とか「解釈改憲」などという、「○○はそもそも」で攻めないと否定できないような論点を日本国政府が出して来た。いやそれはまずいだろういくらなんでも。けどなあ。
ならどうするか。
結局のところ、トライ&エラーとなる。やってみて、失敗して、どうすればいいかまた考えて、修正して行く。ロンリロンリを連発する輩がダメなのは、こういう調整にはロンリもへったくれもないという事実が見えていない(イコール自分の生きにくさを改善する方法論を持たず外に不平不満を垂れる)と見做さざるを得ないというのもあるなあ。
原発がなぜ絶対悪に近いかは、実用域においてあれは「トライ&エラーが許されない」からだとも思う。失敗したらアウトなんだもの。社会そのものが死ぬ。そんなもんを礼賛するのはやはりロンリロンリの連中が見たところ非常に多い。
差別は悪、と言い切りたい気持ちも分かる。しかし例えばこの事例はどうだろう。私が去年介護実習で行った障害者施設には精神障害、身体障害、知的障害者が一緒のハコに押し込められていて、交通事故で全身麻痺だが認知機能も会話も可能な利用者さんに「知恵遅れの連中といっしょくたにされてよお、毎日あいつらがアーアーわめいてるの聞かされてみろ。気い狂うぞ」と愚痴られた自分は、それが知的障害者への差別であることを認識しつつ、何一つ反論できやしなかった。せめてと「こういうこと言ってましたよ」と職員に報告し、「部屋分けるとかできないもんなんでしょうかねえ」などとお茶飲み話を装った問題提起をするにとどまる。無論部屋を分けるなんてのは「本質的な解決」からはむしろ遠ざかる方法だ。しかしその不可能性、自分(ら)の無力を鑑みるに、それが現時点一番いい方法のようにも思える。どうしても「差別は悪」という命題からは逸脱してしまうから、やっぱり、ある命題を前提としてしかものを語れないようなロンリロンリな連中とは距離を置かざるを得なくなる。
愚痴として言うなら「あんたらにだけは言われたくないよ」的な、しょうもないものに帰結して行くこういった行為がしかし、世の中を問題だらけながらもなんとか、回してきたのだ、という確信を叫びたくなる。
せめて、人の良心を信じようや。そして人がおいつめられると大事な良心が失われてしまうという事実を噛み締めようや。そのために、その人の置かれた立場、その人のさらされているストレスがきちんと見える人になろうや。
言えば言うほど弁解じみて来るが、弁解じみて、口に出すのも嫌なことを「敢えて」言ってみなければならない時があるんじゃないか?というのが今の自分の「トライ」だ。身近に原発事故の被害者を知りつつ、自分自身は決して被害者とは言えない立場である私が、学者のひとことに対して「あんたら被害者が見えてんのか」とその弁の「軽さ」にブーイング垂れるのもその一環。
…と、思いたいのだけどね。最近いろいろ愚痴っぽい。