正しさより望みを語る

純化には益も罪もあるが、これは単純化してしまった方がいい。
「生活を犠牲にしてもいいから原発止めたい」
という意向と、
「なにはともあれ国を建て直さないと」
という意見に「論理的」な対立はない。全く別の次元の話であるし、どちらも「論理」以前の「望み」だからだ。
だからどちらの立場に立つ人も、それが論理的に優れているなんて思わない方がいいし、そもそも論理の世界に「優れている」なんて尺度はない。正と偽しかないんだから。
問題にしなければならないのは「なぜそう思うか」であって、その論が正しいかではない。そして現時点、この国でそういう「非論理」を断ずるだけの力を持つのは「世論の反映としての選挙結果」しかない。
大体して、ある概念が「正しいか」否かを投票で決めるって既にキチガイ沙汰でしょう。投票で決めるのは常に「どうするか」であり「正しいか」ではない。これは憲法改正国民投票ですらそう。我々日本人はいかなる方向にこの国を持って行きたいか、という望みを問うのである。
日頃、論理的な検証を非論理な野次でぶち壊され続けて来た人は非論理を憎むかもしれんし、口が滑って「論理的な思考のできない人とは話ができない」なんて言い出すかもしれないけど、「論理的な思考のできない人とは話ができない」人間なんて人間じゃなくてロボットも同然なんだという事実を彼は大体の場合押さえた上で言っていると信じたいのだよ。ことが政治の場合、あらゆる勢力を超越したものさしが必要に思える人は多かろうが、そんなもんは(少なくとも論理の世界では)存在したためしがないのだよ。
そして「自分が正しいのに分かってくれない」とムクレてしまうような人は既に政治の世界にものを語る資格なんてない。政治は何よりも(非論理の権化である)人相手に行われるべきものだからだ。憎まれるべきは偽証、現実認識へのバイアス(どうしたいか考える材料を奪う)であり「非論理的な態度」では断じてない。
なので、私が書くこのブログに「論理」を求めても無駄。そんなことより安倍がまた二枚舌使いやがったけど、あんなやつあんたは信用できんのか?と詰め寄るようなスタンスで、自分は書き続けて来たし、今後もそうだろう。