論理とか論破とか、なんなのだと

なんか今週になって言うことが随分乱暴になって来ている自覚はある。「学生」という奇妙な肩書きから脱出し、自分で自分の面倒を見る企業人に戻ったこと、そこに手ごたえを感じ始めたことから、今までの漠然とした世間様への遠慮がいよいよなくなって来た。それがいいことかよくないことか、葛藤はあるが、ンなことここで喋ってもしゃあない。
昨日だったか、周囲の圧迫から来るストレスで自滅しないために「相手に論理的な反論をしましょう」なるツイートが流れて来て倒れそうになった。昨今やたらと妙なところで「論理的」なるタームが出て来る。多くの人にとってのストレスの原因が自分の立ち位置を周囲が誤解することであることは確かだろうが、普通に考えてみよう。「自分は誤解されている」とムクれた誰かが論理だロンリだで長ったらしい能書きを垂れ始めたとして、あなたはそいつを見直すかね?
いいたいことも言えないでモゴモゴしてる様がうざったいだけだったなら「言うようになったねえ」と見直すかも知れない。しかしそれだけじゃないでしょう。人が人を軽蔑する原因は。ましてネット上では相手がもごもごしてるかどうかなんて分からないんだから。
人が周囲と和解して居心地悪さとお別れするのに一番いいのは周囲と互いの人格を認め合うことだ。そこへ至るにも道はひとつではないだろうが、多くの場合「論理的な反論」は最も遠回りな道になると思う。なにしろネット上で妙ないいがかりをつけて喜んでるヤツほど「ロンリロンリ」とロバートプラントみたいに口走ってるんだから。
2chだろうとナントカ掲示板だろうと、「相手を言い負かす」ことを第一義に貼りついているアホがウヨウヨいる昨今、「論理的に反論しましょう」とはつまり「相手を言い負かすゲームに参加してストレス発散しましょう」としか読めない。冗談ではないのである。
議論の場において、論理的であることはさほど難しくない。みなの共通認識を見極めて、それに乗っかっていさえすればいい。しかしそれだけで物事が解決するならおまわりさんなんていらないのですよ。まず共通認識をつくる必要がある。その上でみなが納得できる絵を描き、落としどころをみつけ、周囲を説得する。そこまでやらないと議論なんて本当は終わらないのだよ。数学なんかの証明では必要ない人と人とのやりとりが大量に含まれて来る(つか、数学の証明が論理だけで帰結するのは物事の定義がはっきりした世界でだけ帰結するものだからだ)。論理はそのための道具に過ぎない。
単純に思う。ロンリロンリだけで世の中の問題が解決できると思っている人ってのは、本当に世の中のことを解決しようとしたことがないのだろう。自分が持っているロンリとやらをみせびらかすことこそが目的であって、使いようによっては世を斬ることができたはずのロンリを部屋に飾り悦に入ってるだけなんだろう。ギターを弾けもしないくせに高価なギターを買って「オレってイケてるぅ」とか言ってるアホと、いっしょですがな。