歴史vs物語?

歴史学者ネトウヨ、じゃなくて安倍信者の争いを観ているとどうしても頭に浮かぶのは「歴史vs物語」なんていう仰々しいテーマの芝居を打った劇団の存在だ。川村毅率いる第三エロチカの「新宿八犬伝」シリーズ。もうとっくに絶版だろうが、その第三作、第四作を収録した戯曲集「新宿八犬伝II」のあとがきの文章が強く心に残っている。芝居自体は「…」な感じだったのだけれども(笑)
新宿八犬伝第二作でナチスドイツを登場させ、物語の申し子にして物語から解き放たれた「八犬士」をベルリンに送り込み、歴史と格闘させていた彼が、のちにドイツのダッハウ収容所跡地を訪れた時のことをそのあとがきは語っている。
ガス室と焼却炉の前に現実に立ち尽くし、その地での加害者と被害者の、我が身における想像上のメモリアルに少しでも胸を八つ裂きにされなければ、死者たちは決して劇作家を許したりはしないだろう」
ある意味感傷的ではあるが、あの物語を、歴史を描くに際に彼が、実際起こった現実との距離感、起きた悲劇に対する戯作家としての落とし前について本気で考えていたことは伺える。
「そこにはおしつけがましい感傷はない」
「収容所はメロドラマを排しているぶん、見に来たものに簡単な涙を流させず、複雑な思考を強いる。この構成は単に"われら"はどうしようもなく加害者であるという自明の自然体が成し得る無意識の術か、あるいは加害者である"われら"は決してメロドラマになしくずしに滑り落ちてはならぬという意志のもとから成る意識的な決意であるのか」
感傷を許さない空気というものを、今の日本人は知っている。昭和天皇がお隠れになった時の「自粛」がそれであっただろうから川村は「八犬伝」第三作でそれを利用しようとした。しかし今の我々は震災および原発事故によって、あのときどころじゃないスケールで「その空気」を知ってしまっている。そのあまりの圧迫感から妙なデマをこしらえて責任逃れする人、あまりの現実の酷さから「なかったこと」にしようとする人。理屈でごまかそうとする人、「とにかく!」とメロドラマに仕立て上げようとする人、それを非難することで安心しようとする人。川村毅もあの乱痴気騒ぎに舌を巻いたのではないか。自分の想像力の現実への届かなさに歯ぎしりしたのではないか。
それでも、私があのあとがきをどうしても思うのは、彼が「その空気」を身体を張ってごまかしなく真正面から受け止め、受け止めた上でそれを利用しようとまでしていたからだ。太平楽な時代を生きていたから思えたことなのか、どうかは知らない。それでも彼は、たとえダッハウの被害者が目の前に現れても自らの演劇の力を信じ、やり切るという決意を見せた。ナントカ論に結晶化させて無害なものに異化する卑怯を知り、それを自分に許さなかった。当然安易なメロドラマに仕立てて安心することも。
歴史であれ、物語であれ、街中でのたわいない噂ばなしであれ、自分以外の誰かについて語り、そこにある現実をひっくり返そうとするなら絶対持っていなければならない覚悟だと思う。太平楽な時代だろうと、今みたいな時代だろうと変わらない「人として」の落とし前。今の私はなにはなくともこの落とし前から始めたい。
目の前で悲劇が起きたとき、それを飲み込みやすく噛み砕いてくれるコメンテーターなんていない。あの瞬間のあの空気と、あの悲劇に飲み込まれて別な世に言ってしまった人のこちらに向ける目線を、自分で受け止め自分で返す。
それができて初めて「あの悲劇」を語れるんだと思う。そういう目線こそが戦後の歴史学者たちが求めたような歴史をつくるんだと信じている。