政治への主張が創作動機となった作品ならちゃんとしてください

東京都美術館で行われた展覧会で、靖国批判の作品が撤去を求められたというニュース。このブログ的にはタイミングがいいというか悪いというか。
「問題の」作品は現代日本彫刻作家連盟の中垣克久代表の「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA円墳―」
絶滅危惧種ですか。Endangered Speciesですか、UK Subsですか。んー、どうなんだろう?
美術館として「政治的主張のあるものは置かない」という方針自体どうなのか、というのはまた別な論点なので今回は触れないが、本稿で問題にしたいのは中垣氏のコメントとして朝日新聞が伝えた「作家として思いを表現した。言論規制につながる怖さを感じる」の一文。「作家としての思い」という言い方には正直なはなし、欺瞞を感じずにはおれないのだ。なぜなら、彼の「作家としての思い」に「政治的主張」が入っているとも、いないとも、彼は言っていない。
ないならそう主張すればいい。しかし彼は屈辱を感じながら「主張」が書かれた札を外した。
あるならあると正直に言わなければならない。そうでなければそんな作品に存在意義などありはしない。なぜか。伝わらないからだ。
昨日の文章で、演劇の現場、役者が嫌がる「政治化」の話をしたが、私自身は芸術が政治的主張を行うことに違和感を感じたことはない。たとえばかの劇団には脱原発論者しかおらず、公演がその主張の訴えのためにあったとするなら、役者もそのテーマとなる台詞を自分の魂を込めて言うだろう。
しかしその時彼らは覚悟しているはずだ。主張する彼らを守ってくれる法律や権利なんてありはしないことを。安全なところで何かに守ってもらいながらの主張なんて誰にも届きはしない。身を晒し、ぶち壊したいなにかの目を睨み、ぶち壊すことで起こる反動に備えている。自分の肉体にその負荷を刻んでいる。このような手触りを感じていない役者にはロクなアジテーションができないはずである。
またしてもつかこうへいの話だが、彼とその一党が大学構内で「飛龍伝」を初演した時、全共闘全学連だをさんざんコケにする台詞があるあの芝居の客席には、その全共闘全学連だの残党が多くいたそうである。それと分かってそういう台詞を書く。それと知って役者は自分の台詞に魂を込める。あの話自身は右がいいの左がいいのといった「いわゆる政治」を飛び越えた話だったことは確かだが、人に、説得力を持って何かの言葉を伝えるにはそれなりの度胸が必要だということ。そんな世界を生きて来たつかが何かの本で言っていた。
「芸術だのなんだのが、文化って言葉を言い訳に生き残りを図るようになったらおしまいってことなんだよ」
私は敢えて、中垣氏にそういう意識があったかを問題にしたい。
それは彼の今後の作品によって明らかになるであろう。少なくとも写真に見る彼の作品には、靖国やら右傾化やらに対して戦い抜くという意識は感じられず、「文化だから、表現の自由だから」許されるはずだ、という心根しか見いだせなかった。