「永遠の0」を憎めないワケ。百田尚樹を許せないワケ。(3)

山梨在住だという方が天ぷら辞任のタグに怒っているツイートを見かけた。天ぷら辞任を掲げてた人はクレーマーとして役所の足を引っ張ってたわけではないし、現政府がいかに国民に対して冷たいか、ということを思い知らされている者がそれを指摘する格好の事例を見つけた故の主張(要するにヒヤリハットへの対策を求める者と同じ)なので、彼の主張は微妙に、というか絶妙に天ぷら辞任の人たちと噛みあわないのだが、彼の、「自分らの存在が政治に利用されることへの怒り」にだけはもう、共感せざるを得ない。
この怒りこそが、自分の百田尚樹を許せない一番の根拠になっている。永遠の0の主人公である宮部の生き様死にざまを、あまりに能天気に「日本のためだった」と政治化してしまうあのセンスは、私の知る限りにおいて、戦後日本の大衆小説がこれまで持ってきた矜持、美学の全く逆を行っている。
「政治化」について説明しておこう。演劇の現場において、たとえば政治その他についての意思表明がテーマの戯曲(要するにシナリオ)を演じる役者から、戯曲に対して文句が出るということが多い。役者は与えられた役を生き切る生物であるし、戯曲の作者そのものでないことが多いから、「あなたのこの台詞こそこの戯曲の「日本」に対する主張でありテーマなのだよ」などと言われても「なにそれ気持ち悪い」となることが多いのだ。役者という生物は、自分の演じた者の生き様を「生き切る」ことこそ重要で、その者の生に妙な解釈や理論建てをされることを根本的に嫌がる。その時彼らが口にする言葉がこれである。「政治化は勘弁してくれ。人間を論そのもののメタファーにされてたまるか」
より分かりやすい例として、つかこうへいの「蒲田行進曲」を語ろう。大部屋俳優として人にいいように利用されるだけだったヤスという冴えない、人のいい男が、命の懸かった階段落ちを引き受けた後のシーン。
それまでヤスを利用し、彼の上司として威張り散らし、雇い主としてカネですべて片付けて来た周囲の連中に、それまでハイハイと卑屈に従ってきたヤスが威張り散らすようになる。映画のために、カネのために命を捨てるというバカバカしい覚悟をした男が、いざ死を前にして怖がりだし、変になったわけではない。命を担保にすることで周囲に対して初めて得たイーブンの関係の中、人が、人として、なんのためでもなく、ただ当たり前に生きることへの渇望を爆発させたのだ。てめーらエラい人の都合で生きてんじゃねえ。オレはオレの生を自分で生きてんだ!というこの叫びこそ、役者という人種と常に斬った張ったしてたつかこうへいの実感であったろうし、ブロレタリアートなんていう政治運動の流れで湧いた「新劇」なるムーブメントへのカウンターとして始まった唐十郎らアングラ演劇の良心でもあったはずであり、さらに言えば、昭和を過ぎてもダザイだアクタガワだをありがたがってる日本の文学ヒョウロンカを尻目に発達した日本の大衆文学の美学でもあった。
永遠の0は、文章や切り口を見て非凡な小説ではない。ただ、これまでの大衆文学の目線に立ち、戦場の一兵卒から見た太平洋戦争を描きながら、大衆小説一番の勘どころを無視して、あまりに無邪気に彼が描いて来た登場人物を「日本の為に生きた者」と政治化してしまった。あの小説の異常性はここにある。
私は百田尚樹がこれを最初から故意にやったとは今でも思っていない。ただ、彼が無意識にやらかした政治化がここちよかった連中の絶賛を浴び、絶賛の中で勘違いして行き、勘違いの中に小説家としての自分を規定して行っただけだろうと読んでいる。
だが、そのことは彼を弁護しない。小説家として最も恥ずかしいことをしでかした彼を自分は許せないし、彼が昭和の生きのいい小説家たちのような毒舌を吐いているのを見ていると、あまりの勘違いくんぶりに目を覆いたくなる。