「人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならない」

表題の文句は育鵬社の中学校公民教科書に掲載されるという曽野綾子のコラムの一文らしい。そもそも育鵬社教科書、安倍の写真がやたら載っていたりサムシンググレートや江戸しぐさで大評判になるなど、トンデモが教科書に仮装して歩いてるようなシロモンなのでことあるごとに騒がれて来た。今度のことも半ば「またかよ」的な、半ばうんざり気味な騒がれ方だったのだが、くだんの曽野コラム、表題に写した結論を除けばそれほどぶっ飛んだことは書いていないと思う。と、今日はそんな話。
人が人との関係を生きるならまず己自身を知れ、というのは鉄則なんだよ。自分のかっこいいところもみっともないところもきちんと鏡に映して自分で認識するところからしか社会参加なんてものは始まらない。自分の売りも欠点も分からず社会に出たとして、そういう人をおもしろがってくれるほど余裕のある人などあまりいないのが現代だ。国際人として生きようってのはある意味その拡大版だから、日本で「暮らし」というものがどういうものかについてきちんと観察しておかないと海外に出ても何が違うか分からないということが起こる。海外での違和感が逆にこれまで気付かなかった日本の風習を実感するきっかけになったりもする。また、仕事で別世界に飛び込むなら尚更で、自分が何をする人で、何を背負い何をもたらす人なのか、ということが明確でなければ仕事にならなかったりする。曽野コラムがそういうことを語っているのならそりゃもう、否定のしようがない。
のだが、そこから急に飛んで表題のコレ、「人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならない」という結論が提示され、はいおしまい。この結論の唐突さ、かつ剣呑さにみな「はい?」となったわけだ。
要するにごくごく単純に見れば、いい話になり得る話題を提供しといて、そこから読者をおいてけぼりにした結論に唐突に飛躍した、作品として見れば単純な失敗作なわけですな。
で、ここからが今日の本題。「こんな駄コラムで子どもに妙なこと植え付けようとしてる曽野綾子なんて信用できんし、そういう内容を狙ってつくってる育鵬社は尚更信用できんから使うな」だとダメなん?
「信用できないからダメ」って俺、物凄く大事なことだと思ってるんだけど、SNSにいるととてもとてもそんなこと言える空気じゃないんだよなあ。
特に今度のアレは作家によるコラム。作家は学者じゃないから論理的に真とか偽とかでは生きてないのよ。飛躍の仕方すら魅力のひとつになっちゃうのが彼らだし、曽野は今回、育鵬社とその周辺の有象無象にとって魅力的になる飛躍をテメエでやってみせたわけ。
ところがTogetterとかで一生懸命「反論」してる人ってのは物凄く論理的に批判するんだよね。あれを見ている人たちは圧倒的に「論理大事クラスタ(と勝手に俺は呼んでいる)」が多いのだから、批判する彼らもそういう場に合わせた言い方をきちんとするし、そのこと自体に異論はないのだが、元来アレってそういうもんじゃないよね?と言いたいわけ。
最終処分場のことで国と地方が大揉めしだした頃このブログで何度も書いていたのは「施設が必要なのはみなバカじゃないから分かってる。それでも反対するのは国が信用できないからだ」ということ。誠意が感じられない。これまでの施設管理の杜撰さが悪い実績として山積みされている。あんな状況ではもはや「あんたら信用できんわ」以上の言葉は出て来ない。自分ら既にそういうところを通過してるんだよね。
また今度の安保法制、安倍らの主張はびっくりするくらいぐちゃぐちゃだが、彼らの弁が仮に論理的に真だったとしたらあんたら言うこと聞くの?聞かないよね。論理大事クラスタな人はそんな自分を恥じるだろうけど、そんなん恥じる必要は全くないんだよ。なぜって、政治は論理だけでできているわけではないから。
人間関係なら、相手がどんなもっともらしいこと言ってても「おめえは信用できん」と言えば相手は黙る。会社同士の取引でも、そりゃあれやこれやとうまいこと言ってノセようとするんだけど最終的に「貴社の実績を鑑みて検討したところ、今度のお話はなかったこととさせて頂きます」と言えば相手会社は黙る。
ところがどれだけ「信用できん」と言っても黙らないのが「国」ってやつ。国だけ特別扱いする理由ってあるか?まあ選挙で選ばれちまったというアリバイはあるけど、だからと言って文句を言う時その言い方までわざわざ「論理的に」変える必要ってあるのか?
そんなわけで、「信用できない人たちが作り上げた教科書はやっぱり信用できないからあんなもん導入すんなや」
敢えてこれを声高に言って、国という立場にあぐらかいてる連中に「信用」という言葉を思い出してもらおうと思っているおいらだった。