メッセージソングが嫌いだった

eastern youth吉野寿さんのWeb日記「天沼メガネ節」を久々に眺めていた。ブッチャーズの吉村さんが亡くなって以来あっち関係からのインプットを無意識にシャットアウトしていたせいもあり、五月中旬くらいから読み直し。5/30の日記については語りたいことがたくさんあるが、こんな殺伐としたブログで語ってはいろいろ失礼なんで割愛するとして、驚いたのは6/17の日記。
既に朝鮮人差別で暴れてる連中への嫌悪を露わにしている吉野さんに、在日特権に反対するファンから「オレはイースタン聴いちゃいかんのか?」というメールが来たそうなのだが、その返事がこれ。

いけません。
金輪際、聴かないで下さい。
お前に聴かせる歌は一曲もない。
お前は自分で自分をどう定義しようと、
思いっきり差別主義者だし、
ペンネームのセンスも最悪。
ロック音楽、いや、あらゆる音楽を作る者、それを楽しむ者、
全員がお前の敵でありますように。

ロックだなんだ言ってても、政治的な主義主張でメンバー側が客を選ぶという局面は、少なくともこの日本ではほぼ皆無だったはずだ。多くのミュージシャンにとってそれはファンの縮小に繋がることだし、言い方は悪いが「ステージに上がる者はサービス業」という意識もあったように思う。もちろんイースタンはスキンズ上がりのドパンクだったし、吉野さんは「ライブで日頃の憂さを忘れようじゃないか」みたいなノリにツバを吐くような男であるから、こういう状況になればこういうことになるであろうと予想はできたはずだった。けどこれまでの、少なくとも現代の日本で、日本人のミュージシャンが、同じ日本人を敵に回してまで主張しなきゃならない政治的な主張なんて皆無だった(あるにはあったがいかにものお題目か、今でいう中二をこじらせちゃったみたいな主張くらいだった)。
それが今やこういうことになっている。
そのことを目の当たりにした自分は、やっぱりショックを受けてしまった。
若い頃は「世の中になんの主張もないような日本のロックなんて糞じゃ」なんて思っていたこともある。けど「○○ってバンド大好きだ」と言った途端、同じ日本人の知り合いから白い眼で見られる可能性を生々しく想像したことなんてなかった。偉そうな批評家どもは「これで日本のロックも欧米に追い付いた」なんて言うかも知れないが、改めて思う。こういう世相になって失ったものはとてつもなく大きい。
政治的な歌詞なんて意識して書かないようにしてるようにしか見えなかったSIONが盛岡のいしがきフェスで「恥を知れ!」と歌ったのは2011年。あの強烈な違和感の時点で気付くべきだった。改めて見回せば、今や山本太郎の演説会にハイスタが応援ライブをやる時代なのだ。
自分の好きなミュージシャンらがおしなべて自分と同じ主張をしていることに若干の嬉しさはあるが、これは「正されなければならない異常事態なんだ」という意識を忘れないようにしたい。自分の親の世代には「戦争の生き証人」という使命のような意識があった。自分らの世代は「あの平和な時代がどれだけ素晴らしかったかの生き証人」なんだと思う。