デモの「暴力性」

週末の安倍やめろデモで「怖くて途中で抜けた」という数人のことが引っ掛かっている。なんかとてもうまく言える気がしないのだが、自分の頭の整理のために書いてみようと思う。あらかじめ断わっておくが、私は抜けたという数人への面識はもちろん悪い感情も持っていない。持っていないが何かやりきれないから、その数人に「分かって欲しい」と思っていることを書く。
「多分、ネットde政治の人の多くが失念していると思うが、実際安倍政権の政策で酷い目に遭った人の怒りって、あんなもんじゃないはずだよ?」
デモはデザインされている。そのことはデモを指揮している人たちが「その数人」の話をいち早く聞きつけ、そのココロを知りたがったことからも良く分かる。彼らは自分らの行動が日本の世論にどのように届くかを注意深く観察しているし、その上で「これなら」というやり方を選び取り、ダメなものは注意深く排除してデモを進化させて来ている。
けど、たとえば消費税アップでいよいよ袋小路にハマった個人経営者や介護福祉法改悪でいよいよ「死ぬしかないか」とタメイキついた高齢者、善意の募金で遊び呆けた役人のことを知った時の被災者、などなど、バラバラの個々人のナマの怒りは、そのベクトルがどこに向かうか分からない上に、何より本人が捨てたくても国に強制される怒りなのだ。連中にたいがいシンパシーを覚える俺でさえ、彼らの本音を真正面から聞くのは御免被りたい。それくらい危険な「怒り」なんだよ。
政治について物申すというのは、単純に、そういうたぐいの「怒り」を生みかねないことなんだ、という意識をあなたがたは持っていたか?ってことに帰結すると思うんだ。あのデモの(主催者たち自身が言うところの)暴力性に「引いて」しまった人は、それまで自分の行ってきた政治的主張が多くの民衆の怒りを呼ぶ可能性を覚悟をしていなかったんじゃないの?
使い古されたSFもどきのワンシーン。最終兵器を発射するのはたかがボタンだが、そのたかがボタンを押すことにためらう支配者の顔。
政治について語る、なんてことは今、ネットのおかげでたかがボタンを押すだけでできる。けど、それがもたらすかも知れない結果への想像力と覚悟がないままに、俺らは最終兵器の発射ボタンを既に連打しているかもしれないんだよ。言う言葉に、放つ相手に、あなたは最後まで「当事者」として付き合う覚悟を持っていたか?
持っていたのなら、あのデモの「暴力性」ごときで引いたりはしないと、少なくともオレは思っているよ。反論があるなら聞きたいくらいだ。