なんのための言論か

NewsWeek日本版の「「反差別」という差別が暴走する」なる記事で起きた騒ぎ。しばき隊周辺にごにょごにょ言ってるのは十中八九言論大好きっ子なわけだが、その言論はしばき隊みたいに誰かを一人でも悲惨から掬い上げることができたか?という一事に尽きると思う。イデオロギーだか社会原則だか知らないが、悲惨に陥っている者を掬い上げることができないなら何の意味もない。
何のための言論か。別にシャアザクの角はザクというデザインにおいてどれだけ蛇足だったかを議論しているならどうでもいいが、政治、特に国際平和に直で関わる話をしているなら誰でもその言論の底に掬い上げたい世の悲惨があっただろう。人のことをどうのこうの言わず、あんたらは我が道を行けばいい。行けば絶対どこかで自らの行動が必要になること。行動という形にしてしまえば小学生でも分かるツッコミどころが生まれることくらい分かる。
政治家のご立派なエンゼツをそのまま受け取るほどお目出度い人はまずなく、ほとんどの人はその結果起きるカネの動きを注視している。言論だって一緒だろう。何がしたくて、何をどうしたくてあなたがたは言論するのか。現実をどう動かしたいのか。そういう目線に立ったとき、↑記事に乗っかって騒いでる連中の言論からは何が出て来るだろう。
それを提示して初めて「フェアな言論、議論」は始まるんじゃないかい?