「自己責任vs人権」とかばっさり過ぎでしょ。

長谷川豊とブラマヨ吉田が凶悪な自己責任論を拡散している。
彼らの主張を目一杯好意的に解釈すれば「明らかな自堕落で人工透析に至った者はそうでない人工透析の患者同等に扱うべきでない」となり、一定の説得力があるように見えるのだけど、
1) 「自堕落な患者」と「そうでない患者」をどのように選別できるか(できようがない)
2) 共同体の維持のために誰かの生命を奪うというのはどうしようもなく最後の手段であるべきだが、今の日本はその最後の手段に出なければならないほど切羽詰まっているか
という点を彼ら全く考えておらず、「建設的な議論」など成立しようがない。ただいたずらに「生活苦から来る国家への怒りを社会的弱者を標的にすることで解消しようとする扇動」にしかなっていない。
特に2)が気になる。オリンピックだナンだと公金のだらしない使い方をしている現政府がどの口で「社会保障の財源がない」と言えるか。長谷川は自分への批判にカネでももらってんのかと返したそうだが、(陰謀論になるので控えるにしても)それを言いたいのは長谷川を批判する側なのだ。Twitterでは何度も「#社会保障に税金使え」とのハッシュタグが盛り上がっている。「社会保障の危機」という前提は誰によってもたらされたものか。
言ってみれば長谷川豊の騒ぎは昨今流行りの「自己責任論」の欺瞞の典型と言ってよい。それを唱える者は「ラクして何もせず暮らしたいだけのクズ」を漠然とイメージするだけでよいが、「自己責任」を押し付けられる当事者の現場はそんな単純ではないし、具体的な対策としても姥捨て山的最後の手段に訴える必要のないものの方が多いのだ。
ちなみに「生存権は保証されるべき」という一番明快な反論は私は避けている。「生存権って知らねえの?」みたいなクイズ番組的議論は不毛だと思ってるし、一番長谷川らに同調してる自民信者、ネトウヨネオリベの連中は生存権をわざわざ否定する憲法改悪をブチあげているんだからそれを言う意味がない。馬の耳に念仏的徒労に終わるのは目に見えている。
彼らの脳内に「自堕落な人生を送り結果的に公費を使い潰す連中」がいる限りいわゆる「自己責任論」はなくならないんだろうね。ただ言っとく。俺も身の回りに自堕落で体を壊していろんなところに迷惑かける奴がいたらボロクソに言う。けど「死ね」は言わないし公の場で糾弾したりもしない。そいつが自堕落でそこらじゅうに迷惑かける存在かどうか判断するのは自分だし、その判断に責任を持って「俺が」そいつを糾弾する。そして「俺とそいつ」という関係がすべての土台である以上「死ね」と言う選択肢はない。それがスジってもんだろう。
最後に、もっともらしいこと言っといて実は単に「自分より下」をみつけ叩きたいだけの奴、バレバレなんだよ。その騒ぎ方が「セーフティネットとしての社会」を破壊するほどに危険なんだってことすら分からねえガキは自分の青さを自覚しろ。世の中甘くないとかヌカしてるてめえらが一番甘ったれてんだと気づけ。

自分のことは諦めても、社会のことは諦めないであげて下さい。

THE PRISONERのDAYDREAMERを延々聴きながらなんべんも書き直してる。そうでもしなきゃ書いてられないことを書こうとしてる。
今度の選挙では古い知り合いにもたくさん電話した。もう何年もメールすらやりとりしてない奴、酷いのになると十年以上とか。
「よう久しぶり、今大丈夫?」「今なにやってんだよ」と最初の挨拶してる時、すごく相手も喜んでくれてるのが分かる。ありがたいことだよなー、こっちも嬉しいんだよ凄く。だから、だから次のひとことを言うのが辛くなる。もう「本題」なんて触れずに昔話だけしてようか、なんて気持ちも掠める。
「でさ、選挙あんだろ?参議院選
「あ?ナニ?」
「選挙だよ、選挙行く?オマエ」
もうこれだけで相手のテンションがガクン、と下がっちゃうんだもの。
分かり切ってる帰結なんですもの。
オレの知り合いなんて好きなことばっかやってたような奴ばかりだからロクな人生歩いてない奴が多い。結婚しても非正規、結婚できず非正規、精神病院入院歴ありとか、リアルでノーフューチャーな奴ばかり。あいつら以上にロクでもない人生歩んでるオレが言うんだから間違いない。大抵が貧乏してて「人生設計」なんて言葉聞くと吹き出してしまうような奴ばかりだ。ナメてるわけじゃない。まじめに考えるのが死ぬほど辛いくらい先が見えない、先がない人生ってこと。
そいつらに「誰それに投票せんか?」「国の未来を考えてくれ」と言うのはね、正直すげえツラいのだわ。
お先まっくら明日をも知れず、な毎日やってるとまず余裕がなくなる。んで世界がつまらないものに見えて来る。幸せな奴が疎ましくなる。浮かれ騒いでる奴が許せなくなる。しまいにゃ「隕石でも落ちてきて日本滅亡とかしちゃえばいいのに」なんて捨て鉢な気分になる。別に異常なことではない。多かれ少なかれ誰でも持ってるはずの捨て鉢さが大きく頭をもたげるってだけ。多くのネトウヨくんたちもそういう人多いんだと思う。いいじゃんもう、戦争でもなんでもしちゃえよ、明日仕事行かなくていいようなことが起こるならもうどうなってもいいや、という気持ちにはオレにも身に覚えがある。身に覚えどころかしょっちゅう、そんなことばっか考えてたようにすら思う。
大人になるってのは何かをあきらめることだ、なんてJ-POPじみた命題に頷いてさ、それでもまあ慎ましく、死ぬまでの間になんかいいことあればいいな、くらいの望みを持って、たまにみんなでバカなことやって。いや、こんな望みだって全然慎ましくないな。こんな望みすら持てない人がたくさんいることを、この十年でいっぱい知ったよ。いい年こいて「あきらめんなよ!」とかアツい言葉ももう口に出なくなった。オレ自身自分のいろんなことを諦めてる。
けど、自分を諦めることと、世界に絶望することは違うだろ?
俺たちだって笑ってられた時期があっただろ?当時の世界が、社会が俺たちをそうさせてくれたんだよ。楽しかったろ?あの宝石みたいな時間を過ごさせてくれた恩ってもんがあるんじゃないか?俺たちには、この社会に対して。
今の若い子はうちらみたいにデタラメには生きられずにいるよ。そういう社会になっちまったから。自分らが社会からもらったものを、今の若い子たちに受け渡すことができなかったから。
政治とか言ってもさ、実際立派に政治の世界でゲンロンしちゃってる奴らは今でも大体オカネモチだよ。デモ行った帰りにうちらには手の出ないスイーツなんか食べに言っちゃってる人の方が確かに多いし、あいつらは俺らみたいなクズのことなんか大抵嫌いだよ。
けど、そんなもんは飲み込まなきゃいけない程度に自分らは、この社会からいろんなものを貰っただろ?楽しませてもらったろ?あの最高にデタラメな日々を過ごせただけで、今がいかにビンボでも俺たちは勝ち組なんだよ。今の若い奴と話してみりゃお前もそう思うはずだ。勝ち逃げは許されないんだよ。
そして何より、お前が世界に絶望してたとしても、俺はお前を信じてんだよ。どんなにバカでも筋を通す奴だって信じてんだよ。
久々の電話がこんな話題で悪かったな。近々必ず、またどうでもいいような電話するから、そんときは心置きなくバカばなしするから、約束するから、
選挙行ってくれ。
俺らみたいなバカが生きてられる日本を残す、たぶん最後のチャンスなんだ。

最賃デモと「被害者ヅラするな」

AEQUITASの最賃1500円デモへの反応をしばらくTwitterで眺めてた。で、冷笑系のを見てるともう小賢しさ満開でケツがかいーくなるのであった。
あのなー。
「被害者ヅラするな」とオレも言いたいよ。誰のせい会社のせい社会のせいと「グチ」るだけではなにも変わらない。今ある環境を前向きに受け止めて笑って生きられるようにまずは気持ちを入れ替えなきゃ人生いつまでもつまらない、なんてのは一般常識のレベルでさ。実際人生楽しみたければどこかしらでそういう気持ちの切り替えってのは必要なんだよ。しつこく言うがオレも「被害者ヅラすんな/しやがって」と言いたい奴は山ほどいるよ。
けど目の前に明らかに不当な被害を生む仕組みがあるのを黙殺しといて「被害者ヅラするな」は言えないんだよ。典型的なマッチポンプだから。「被害者ヅラやめて周りをみてみな、捨てたもんじゃないだろ?」と言えるだけの「周り」がないのにそんなことどうして言える?
ましてAQUITASは「グチって」はいない。まっとうな権利として保証されているデモという手段をもって要求してるわけだからね。動画見れば分かるけど意気揚揚としてる。「明らかに不当な被害を生む仕組み」に異議を唱えて、改善へと「働きかけて」いるわけよ。あれを「グチってないで」と言ってる奴はまず動画見てみればいい。
ああやって動き出した人たちを「バカだねー」と冷笑して、そのくせ軽減税率だ社会保障削減だで朝三暮四にもならない「被害者を出し続けるシステム」をほいほい閣議決定して行く連中に「くそだねー」と後ろ指さして、それで何か変わる?誰のせい会社のせい社会のせいとグチってるだけの連中とそれのどこが違う?
そこんとこ考えてみてちょーだいな。
俺は、「被害者づらするな」と言いたいがために公平を求める。前向きに考えればましに生きて行けるだけの環境を求める。最賃もヘイトも原発問題も戦争反対も根差すところはこれに尽きる。
その上でグチってるだけの奴にボロクソ言いたい。

はてなキーワード「SEALDs」の明確な間違い

SEALDsとは編集

単に書き直せばいいんだろうけど、Wikipedia編集合戦みたいなことになったときねちねち書き直し続けるほどの暇はないし、ひとたび合戦になれば撤退した方が負け扱いされそうなのでここに書いとく。つーか事実誤認のキーワード解説を報告するフォームみたいなものははてなにはないらしい(キーワード削除依頼だけはある)。全般的に主観的かつどーでもいいような価値観で書かれた上に事実誤認、と無茶苦茶な文なので、加筆とか修正とかしようと思ったら全削除せざるを得ない。なので事実誤認のぶんだけ指摘するにとどめる。
基本的に学生を中心とする組織だが、組織の運動趣旨に賛同するなら
年齢に関係なく参加可能である
ここな。
彼らは「学生」の団体だ。ただし高校生以下は「一緒にやるには早すぎるだろう」ということで参加は断っている。そのおかげで高校生の団体T-nsSOWLが立ちあがったわけ。大学生、大学院生には「参加」を呼びかけ、他には「協力」を呼びかけているのは公式サイトのContact Usの文言を見れば分かるとおり。反差別界隈のおっさんおばさんたちは若い彼らをむしろ驚嘆をもって眺めた側であり、デモの際も当初は「おっさんなので」と控えていた。ただしSASPL登場の頃から彼らのことを大注目していたのは間違いなく、オッサンはオッサンとして、という立場からSeals(あざらし)として若いSEALDsの露払いを自称するようになった。
確かに身体検査(笑)はしていないようだが、こういう背景を分かっていればわざわざ非学生でSEALDsに入ろうとするような奴はいやがらせか覗き趣味の奴くらいだと分かるはず(おっさんおばはんでああいう活動したければ実際にはもっと多くの受け皿が既にある)。また彼らのイシューは九月までは秘密保護法反対、その後は野党共闘と明確なため、妙な思想に浸かった者が紛れ込んでもその動きがブレる可能性は低い(イシューが単純だからさまざまな思想背景の者も入れる。その姿勢がさまざまな政党の議員がゲストで来たりする理由にもなっている。)
そんなわけで、とりあえずあの一文と、それにまつわるカギカッコは削除した方がはてなのためだよ。

遅れて来たしばき隊フォロワーとしてはね。

昨日これ読んで「そりゃ最初は楽しかったんだろうなー」と思ってしまった。
http://blogos.com/outline/148887/
言うまでもないことだが相手を口汚く罵るなんてのは気持ちいいわけがない。おいらも数少ないカウンター経験で身に沁みている。それでも最初の頃の彼らには「真似したくなる熱」のようなものがあったのだろう。そういうのが文章から伝わって来た。ちなみに初期しばき隊の頃、自分はネット環境どころじゃない収入だったためこういう動きは一切アンテナに引っかかって来なかった。
で、今のカウンターってのはどうなのよ?ここで言われてるほどにダメなものなのかよ、と考えればそんなことは全くなく、バカの言説がこれ以上広まらないようにするための直接行動の重要性は増すばかりだ。ただ、こないだの仙台偽装移民?反対?とかのクソ街宣に関する限り、もう「怒鳴り散らす」こと自体は浮き上がってるなあ、という印象を拭えなかったというのも本音である。
なんつーか、相手がショボすぎんのね。
最初にマイクを持った牧師みたいなカッコのバカはまだよかったのよ。怒鳴りつけたこちらを睨み返すツラにもアレコレ言い返す声の張りにも「ケンカ」と言うにふさわしいだけの気合は感じられた。けどその後の弁士?とやらはなんかもう見るからにネットでぶつぶつ言ってるだけですみたいな存在感しかなく、たまに怒鳴り返しても目をそむけるばかりで、これに罵声ぶつけても「いじめ」になっちゃうな、という自制心が湧いてしまうのね。
すごく主観的な感想だと思われる人もいるだろうけど、こないだの日曜SEALDsのデモの先頭に突っ込んできたという街宣右翼が自慢げに?アップしたこちらの動画を観てもらえば分かると思う。
https://twitter.com/gisei594/status/673388602370342912
車ん中で甲高い声で、それでも精一杯凄んでるウヨク?さんだが、その眼前で見ているマスクの女の子、モロに罵声を浴びている側にいることは分かってるはずの女の子の「生暖かく見守ってる」感はどうだろう。見ていてむしろウヨク?さんに同情したくなっちゃうような彼らのよわっちさはどうなんだろう。仙台でオレが感じたのはまさにそれだった。
ケンカが成立しない。
何度かこのブログで書いているが、俺がAntifa界隈の動きをフォローするようになったのはbcxxxさんのしばき隊についてのエクスキューズがきっかけだ。俺みたいな理屈より先に体が動く手合いにもできることがある、やるべきことがあると思わせてくれた。しかしてその現場では実質「力で抑え込む」だけの相手は消失していた。清義明氏に言わせればそんな局面は最初から存在していなかったことになる。図に乗った在特会がコリアンタウンでヒャッパーしてるという知らせは俺みたいな人間にとっては「血が騒ぐ」ことだった。カンチガイしたバカを懲らしめるってのはぶっちゃけてしまえば「楽しい」からね。けど現場に行ってみれば彼らは全然ヒャッパーしておらず小理屈をコネコネしてるだけのおばかさんだった。春の郡山の時には「カウンターに参加する」ことで夢中で、そんなこと考える余裕もなかったが、こないだの仙台と、上の動画見るとどうしても「萎え」てしまう。
そんな彼らの佇まいを裏切って、彼らが言っていること自体に耳を傾ければそれは身の気もよだつような醜悪さだ。それだけに的を絞って、それを拡散できないようにする。そこにはもう清義明が懐かしがってるようなカタルシスはないのだろう。乗りかかった船だし清氏が言うような「良心的な味方」に任せれば大丈夫とはとても思えない自分は、このなんの面白みもない作業を淡々とこなして行かなければならない。
それだけに清義明の文章ってのは胸糞悪く癇に障るのよね。遅れて来たしばき隊フォロワーとしてはね。

8・30後の日本

戦争ができる普通の国にしたいか。
それとも戦争をしないことにこだわり続ける国として世界と対峙するか。
外交とNGO的支援でもって紛争の火種を消して行く、というのが「正解」わけではないし、そうすれば平和は守られると確定するわけではないが、それと同じに、中国が攻めて来るから軍備すべし論だって軍備すりゃ平和は守られるのか確証があるわけではない。昔はそういう点「偉い人に任せておけば大丈夫」と言えたが、今「偉い人」がアレなんだから自分らの意志を示して行くことが求められる。「安倍はやめろ」と言った以上はそういう責任を自分らは帯びる。
どちらを選ぶかの思考過程で、さまざまな「正しさ」を自分らは探すことになるだろう。判断材料として国際情勢の情報を集め、錯綜する情報から事実を掴みとらなければ、正しい情報を得られるよう努力しなければまた変なまとめサイトに国を弄られることになる。
けどその正しさはあくまで判断基準でしかないし、最後に決めるのは自分らの意志なんだよ。
8・30後の日本は意志の力で決まる。そこんとこよろしく。

「人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならない」

表題の文句は育鵬社の中学校公民教科書に掲載されるという曽野綾子のコラムの一文らしい。そもそも育鵬社教科書、安倍の写真がやたら載っていたりサムシンググレートや江戸しぐさで大評判になるなど、トンデモが教科書に仮装して歩いてるようなシロモンなのでことあるごとに騒がれて来た。今度のことも半ば「またかよ」的な、半ばうんざり気味な騒がれ方だったのだが、くだんの曽野コラム、表題に写した結論を除けばそれほどぶっ飛んだことは書いていないと思う。と、今日はそんな話。
人が人との関係を生きるならまず己自身を知れ、というのは鉄則なんだよ。自分のかっこいいところもみっともないところもきちんと鏡に映して自分で認識するところからしか社会参加なんてものは始まらない。自分の売りも欠点も分からず社会に出たとして、そういう人をおもしろがってくれるほど余裕のある人などあまりいないのが現代だ。国際人として生きようってのはある意味その拡大版だから、日本で「暮らし」というものがどういうものかについてきちんと観察しておかないと海外に出ても何が違うか分からないということが起こる。海外での違和感が逆にこれまで気付かなかった日本の風習を実感するきっかけになったりもする。また、仕事で別世界に飛び込むなら尚更で、自分が何をする人で、何を背負い何をもたらす人なのか、ということが明確でなければ仕事にならなかったりする。曽野コラムがそういうことを語っているのならそりゃもう、否定のしようがない。
のだが、そこから急に飛んで表題のコレ、「人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならない」という結論が提示され、はいおしまい。この結論の唐突さ、かつ剣呑さにみな「はい?」となったわけだ。
要するにごくごく単純に見れば、いい話になり得る話題を提供しといて、そこから読者をおいてけぼりにした結論に唐突に飛躍した、作品として見れば単純な失敗作なわけですな。
で、ここからが今日の本題。「こんな駄コラムで子どもに妙なこと植え付けようとしてる曽野綾子なんて信用できんし、そういう内容を狙ってつくってる育鵬社は尚更信用できんから使うな」だとダメなん?
「信用できないからダメ」って俺、物凄く大事なことだと思ってるんだけど、SNSにいるととてもとてもそんなこと言える空気じゃないんだよなあ。
特に今度のアレは作家によるコラム。作家は学者じゃないから論理的に真とか偽とかでは生きてないのよ。飛躍の仕方すら魅力のひとつになっちゃうのが彼らだし、曽野は今回、育鵬社とその周辺の有象無象にとって魅力的になる飛躍をテメエでやってみせたわけ。
ところがTogetterとかで一生懸命「反論」してる人ってのは物凄く論理的に批判するんだよね。あれを見ている人たちは圧倒的に「論理大事クラスタ(と勝手に俺は呼んでいる)」が多いのだから、批判する彼らもそういう場に合わせた言い方をきちんとするし、そのこと自体に異論はないのだが、元来アレってそういうもんじゃないよね?と言いたいわけ。
最終処分場のことで国と地方が大揉めしだした頃このブログで何度も書いていたのは「施設が必要なのはみなバカじゃないから分かってる。それでも反対するのは国が信用できないからだ」ということ。誠意が感じられない。これまでの施設管理の杜撰さが悪い実績として山積みされている。あんな状況ではもはや「あんたら信用できんわ」以上の言葉は出て来ない。自分ら既にそういうところを通過してるんだよね。
また今度の安保法制、安倍らの主張はびっくりするくらいぐちゃぐちゃだが、彼らの弁が仮に論理的に真だったとしたらあんたら言うこと聞くの?聞かないよね。論理大事クラスタな人はそんな自分を恥じるだろうけど、そんなん恥じる必要は全くないんだよ。なぜって、政治は論理だけでできているわけではないから。
人間関係なら、相手がどんなもっともらしいこと言ってても「おめえは信用できん」と言えば相手は黙る。会社同士の取引でも、そりゃあれやこれやとうまいこと言ってノセようとするんだけど最終的に「貴社の実績を鑑みて検討したところ、今度のお話はなかったこととさせて頂きます」と言えば相手会社は黙る。
ところがどれだけ「信用できん」と言っても黙らないのが「国」ってやつ。国だけ特別扱いする理由ってあるか?まあ選挙で選ばれちまったというアリバイはあるけど、だからと言って文句を言う時その言い方までわざわざ「論理的に」変える必要ってあるのか?
そんなわけで、「信用できない人たちが作り上げた教科書はやっぱり信用できないからあんなもん導入すんなや」
敢えてこれを声高に言って、国という立場にあぐらかいてる連中に「信用」という言葉を思い出してもらおうと思っているおいらだった。