安保法制、整理してみる。

アメリカが昔ほど軍にカネをかけられなくなった。不足分、特に日本近海の防衛のぶんは日本がなんとかしろとなった。そういうことであって、中国韓国はむしろそのためのダシにされている感が強い。危機の煽り方としてスクランブル数などという「あかりちゃん」にモロ反論されているようなことしか出せないあたり、ネトウヨや政府が騒ぐほどには日本は危険ではないんだと思わずにいられない。
で、そのための安保法制だが、あれこれ枝葉を剥ぎ取って単純に言えば、
1)湾岸戦争やらイラク派兵やらのようなことが起きたとき、自衛隊が実戦部隊として派兵できるようにしたい。
2)軍需産業を大々的にやることで経済破綻を免れたい。
結局これでしょ。他に持ち出してるあれこれはみんなイイワケ。個別的自衛権集団的自衛権の混同を安倍ら自身がやらかしちゃってるのは、彼ら自身そういう意図をぼやかそうとしてるから以外に理由が浮かばない。大体みんなそれが分かってしまっているし、にもかかわらず白々しいことを平気でヌかすから安倍政権は支持率を下げまくっている。
それでも正直に言わない彼らの幼児的な心中については語るに及ばない。考えるだけでもうんざりだ。とにかくこの状況にあって安倍らの進める上2つが日本のためになるか、というのが日本人が考えるべき論点になるわけよ。結局は。
なので、あとは私見。まずアメリカにアタマが上らない現段階で上みたいなことを決めてしまったら日本は終わるとオレは見ている。アメリカの軍事力が下がっているのは全世界的に見れば好ましいことだし、アメリカ的な軍制では中東の混乱を止められないことはベトナム戦争の時点で明かされている。それでも彼らは軍事力を振りかざしたがるだろうし、それが世界をより混乱に導くことはもはやお約束と言ってよい。そのアメリカの腰巾着としての日本というイメージが世界に定着すれば単純に詰みだ。最低でも英仏のようにアメリカに対して(比較的)自由に意見を言える立場を手に入れない限りはそうなる。したがって現時点での安保法制は自滅と言うしかない。
次に、なぜこの状況で現政府はアメリカべったりを続けるのか、という問題。そこにどーでもいいようなアジア諸国に対するレイシズムが透けて見える以上「彼らに武器を与えるのは危険」と見ざるを得ない。これは国際情勢とか以前の、政府中枢にいる人たちへの不信だ。平和のためにといいながら中国韓国に対してなぜあれだけ挑発的な態度を続けるのか。日本が真に自立した近代国家であると言いたいならまず中国ウイグルの間に立つべきだっただろうし、経済封鎖で戦前の日本みたいになってしまった北朝鮮への国交回復の扉を叩き続けるべきだろう。外交で国際緊張から抜け出す手立てを探る、という方向性を最初から安倍政権は無視しているようにしか見えない。彼らの言う「平和」ってなんなの?となる。
加えて、あれほど「安保法制が予算を食い潰すことはない」と明言していた安倍が昨日あっさり「数兆円規模の増額が必要」とか言い出したこと。ただでさえカツカツの国庫をどうするつもりなのか。まず消費税は上がる。政府に意見できる経団連系の企業は軍需でなんとかなるが他は一気に下流層へ。要するに富の二極化が今まで以上に進むし、生活苦で命を失う者は今まで以上に増えることになる。そうまでして「日本を守る」と言うが、その「日本」の中に下流で生活苦に喘ぐ国民は含まれていないことになる。これは古今の戦争ほとんどについて言えることで、民が民のために他国に銃を向けるなんてことはほぼなく、戦争というのは一部富裕なものの富を守るためにしか存在していない。「反戦」という言葉が民主主義を是とする国でほぼ無条件によいものとみなされるのはそういうことだし、戦争せんかなーとか言い出すのは古今東西オカネモチなのだ。「オカネモチのために」を「日本のために」と言い換えられて命を投げ出すのは対米対中同時敗戦でこりごりである。
最後に、戦争ってのは結局「ナニを守るためか」で決まると思っている。そこをはっきりさせず「おくにを守る」などというあいまいな表現で何度もダマされるほど、日本人はクソでバカで愚かではない。そう信じている。
要するに、てめーらのために迷わず命張れるほど、てめーらは立派なんですか?立派なとこまず見せなさいよ、ということ。「言うこと聞かなきゃ家族を殺すぞ」とかそういう体制になるなら今あるこの国の政府そのものがおいらの「敵国」だ。

いじめとヘサヨとレイシズム

隣町のいじめ自殺が全国ニュースになって、明らかにいじめっこだった自分としては肩身が狭い毎日だ。職場でも話題になる。「ひどいですよねー」とテキトーに返しながら心はビクビクしてる。なんちゃって鬱病をやった2012以降あきらかにいじめられっこ方面にばかりアピールする文体になってるからネット上でも迂闊にいじめについて口を出せずにいた。が、ちょっとSEALDsに茶々入れるネトウヨヘサヨの姿勢とか見てても思うところあり、この際モヤモヤしてたもんは吐き出そうと思う。フォロワー減るな。間違いなく。
ガキの頃近所に大島くんという大人しくて運動が下手で本ばっか読んでるような子がおって、うちの親と大島くんの親は大親友だった。当然遊びに行く時は大島くんを誘わないと怒られる。そんなわけで野球やるにも釣りに行くにも大島くんに「一緒にいこ」とやるのはオイラの役目だったわけだが、想像つくだろうが大島くんも嬉しくないんだよ。運動下手だから野球もおもしろくないわけだし、釣りだ秘密基地だで連れ出しても他の悪ガキどもとノリが違う。そんなわけで誘ってもいい顔しないわけ。けど一緒に遊ばないと母は悲しむし父は怒る。正直言ってやっかいだった。気が付けばオレと大島くんはいじめっこといじめられっこの関係。中学上がって遊び仲間が近所じゃなくなった時は本当にせいせいした、というのが本音。
世話焼かれたり、「みんな」とおもしろくもない遊びするの、嫌いだろ、いじめられっこのみなさん。そういう面倒なしがらみから離れて、自分の好きなことに没頭していたいだろ?いじめられっこのみなさん。
けどさ、いろんな奴が顔ほっつき合わせて生きてるのが社会じゃないの?
ノリが違う、趣味が違うの差をいちいち社会がフォローして、こういう趣味の人はここ、ああいう趣味の人はこっち、みたいに生きる場を用意してくれるほど町ってもんは広くないって、分かるでしょ?
「僕には僕の世界がある」というのはいいけど「だから僕用の場を用意してよ」とまで当然のように言われたとしたらやっぱりオレは「なに甘ったれてんだよ」と言ってしまうんだな。この気持ちは今でも変わらない。
今のオレが、いじめっこだった小学校の自分に一番言ってやりたいことは「それでも付き合い続けなきゃダメなんだ」ということ。狭い世界で「合わない」ヤツがいたとしても、そこをなんとかうまくやってこうとするのが人間なんだよ。文句垂れながらでもいい。逆に嫌がられながらでもいい。そいつと一緒に生きているという事実をとにかく、肯定するところからしか社会は始まらないんだってことなんだよ。だから「もうアイツいいよ、頼まれても仲間に入れてやんない」となった自分はやはり、ダメなヤツだったと思うんだよね。
見渡せば、そういうしがらみから逃れられない「狭い社会」を嫌がって広い都会に埋もれた子がたくさんいる。同好の士だけでかたまれるネットに埋没した人が山ほどいる。日本中の大島くんみたいな子のなれの果てが「だから僕用の場を用意してよ」から「よし、僕用の場をつくっちゃる」にちょっとだけ進歩して、つくった場で安心しとるのだなと思う。
けど、いろんな奴が顔ほっつき合わせてごちゃごちゃしなきゃ生きて行けないって現実は変わらないんだよ。どこまでもついて来る。就職すればさまざまなクラスタとコミュニケーションしなきゃならない。相手の都合が分からなきゃならない。そういうのは、避けることができないものなんだよ。
「あいつらくだらんもんばっかで騒ぎやがって」でも「自分に自信がないから右へ倣えするんだろ」でもなんでもいいや。リアルでそれ言ってみ?ボロクソ反論してやっから。そうやって、悪口言い合う関係でもいいから、とにかく人間関係を生きようと心掛けてみ?
社会から背を向けて「ぼくのことはほっといてくれよ」と言えるっていうのがこの社会ではいかに贅沢で、恵まれているか。周りを見回して確認してみ?
多様性を認めるってことは、違う奴とは距離を置くってことじゃなくて、違った奴ともどんなかたちであれ一緒に生きて行けるってことなんだよ。
…そうやって後生大事に守って来た「自分の世界」こそを文化だとか思ってる人は、そりゃレイシズムに傾くよなあ。「みんなの生活」のために上げるデモの声がバカにしか見えないだろうな。ネトウヨとかヘサヨとかがみーんないじめられっこヅラしてるのは要するに、そういうことなんだろうな。と思ってしまっている。違うなら違うとこ見せてくれよ。生活の場で。

安保論戦、語るに足らず。

本来ならもういくらでも言葉を尽くして論じるべきことなのだが、今の国会、安保法制についての審議について、まじめに語れば語るほどバカバカしくなる。実はもうこのエントリ、長めの文章書いては消しで五回くらい書き直してるんだがどうしてもしっくり来ない。
国会ってのはさあ、ある概念が「正しいか正しくないかを論じる」場じゃないでしょ?
今国が直面している問題について「どうするかを選ぶ」場でしょ?
「戦争法案」はそういう前提を完全に踏み外している。要するにそういうこと。全く語るに足らない。
「さっさと廃案にして世を騒がせた安倍らは腹切れ」
これくらいだね。言いたいことは。

上から下までクソ野党、ウンコ野党、カス野党。

日野市議会で「平和安全法制に関する意見書」(早期成立を強く求めるもの)というのが採択されようとしている、という話がネットに広まったのが14日。しかしそれほど炎上したわけでもなく、可決されたのが今日。今日の審議については市議会議員ちかざわ美樹氏のFBに詳しい。
https://www.facebook.com/miki.chikazawa.7/posts/996149410436071
なんじゃこれ?
と思いませんこと?
国会では戦争法案に反対している民主党だが、市議会ではホイホイ賛成していたという。ネットに広まったことで動揺したのは民主だけではないらしく公明の市議もいろいろ揺れていたそうな。で、笑えるのが以前、日野市の市民から出された戦争法案反対の意見書については「国防は国全体で考えること」という理由で否決していたのだという。
なんなんじゃ?それ?
今日の審議はネットに広まったこと、反対する市民が集まったこと「を理由に」難航し、結局決まったのは夜になってからだったという。
なんなんなんじゃ?それは!?
派遣法採決に応じちゃったという民主の国会議員含め、野党全部つぶれちまえ。本気で思った今日のことでありました。
日野の件のまとめは以下。
http://togetter.com/li/836415

「ヘイト騒ぎに巻き込まれちゃった系」

なーんか最近、週末街に出ると日章旗振り回した変なデモやってるなあ、みたいな人は多いんだと思う。「あれ何やってんの?」と素朴な疑問の方もまだいらっしゃると思う。それについては下手な長文でズラズラ説明するよりこれ見た方がよろしい。

書き起こしはこちら。
NHK クローズアップ現代
後半に行くにつれてサイレントマジョリティとかコミットとか、ちょっとムズムズする内容になって来るけど、「あの変なデモ」がどういうものかはこれで知れると思う。
でも、これだけだとなんかやっぱり遠い話にしか思えないと思うんだ。大抵の人には。しかしどんな人でも思いがけないかたちでこの世界に巻き込まれることは有り得る。今日はそんな話。
例えば書店員だったオレのケース。
2005年の「マンガ嫌韓流」以降、「中国韓国を笑いものにしよう」という趣旨の本、歴史認識を捻じ曲げて「太平洋戦争は正しい戦争だった」ということにしたい本が増えて来た。人文書担当だった自分はそんなもの触るのもイヤだったからさっさと返品したかったが取次他との仁義もある。結局会社にダダをこね、職を失うきっかけになった。俺みたいな直行バカと違い、今でも良識ある書店員は棚の置き方に工夫したりとさまざまな方法でヘイト本の跋扈に対抗している。いずれ「ヘイトデモなんかと関わりない書店員」だったはずの自分らは、本の力を信じる者としてあのようなデタラメヘイト本を放置するわけにはいかなかった。
その流れとして「日の丸街宣女子」というマンガのことにも触れておく。作者は手塚賞受賞の商業漫画家だが、同時に上動画に出て来るヘイトデモの常連。「朝鮮人はみんな死ねー!」とか叫んでる側から「あのデモ」界隈のことを描いたのがこのマンガだ。新興宗教の街頭勧誘におもしろがってついて行くと変な絵本みたいなのを見せられて自分らの神様はいかに偉いか、という説教を食らうが、感じとしてはその絵本に近い。そういうものを「表現の自由」を盾に全国流通に乗せてしまったのがこのケース。トキワ荘通協働プロジェクトという市民団体の「紫雲荘ワークショップ」という企画でこの作者を招くことになっていたが、猛抗議を受け中止、という事件が起きている。
そして鳥肌実のこと。鳥肌実は右翼の街頭演説、三島由紀夫の自決事件などのパロディをやるまあ一種の芸人。出て来た90年代は時代の空気もあり完全に「芸」でいられたが、世相が殺伐として来るにつれその芸風に不快感を覚える者も増え、ヘイトデモに駆け付けてパフォーマンスしたり、在特会との繋がりが明らかになるにつれ、完全に「ヘイト芸人」と化した感がある。先月彼の九州ツアー日程が明らかになったとき猛抗議が湧き起こり、いくつかのハコはキャンセルを申し出ることになった。
他にもあるけど、とりあえず「ヘイト騒ぎに巻き込まれちゃった系」の事例が三つ。当然今後増えて行くことになる。差別扇動表現をめぐる人々の動きが止まらない限り。
だから、こんな目に遭ったらあなたならどうする?というのをここらで一度、考えてみて欲しいわけ。
なんだかんだで自分ら「仕事で」そういうのに関わってるわけだから、「より食える」「より儲かる」方を選びたい、というのは自然ではあるよ。ただ、例えば書店にヘイト本が溢れたおかげで「これ普通なんだ」と錯覚しちゃった者は絶対いるし、彼らがやっている差別扇動、差別行動がもたらす結果は最初の動画の通りだ。悪い言い方をすれば「死の商人」的な儲け方をした、とのそしりは免れない。
次に鳥肌なり日の丸街宣女子なりヘイト本なりが「それほど叩かれなければならないコンテンツなのか」という疑問もあるだろう。しかしそういう疑問があるなら調べなきゃ解決に至れないのはどの仕事でも一緒だし、そこに悲しむ者、被害者がひとりでもいれば、当事者としての我々は一つの決断を突き付けられる。その被害者を「無視して儲けるか」否か、という決断だ。
そんなものは法的に定まっていないのだから、というのも「商売人としては」アリな見地。けどさ、少なくともここに挙がった三例は「コンテンツ」で、今後も「ヘイト騒ぎに巻き込まれちゃった系」はこの分野で起きる可能性が高いわけ。本屋は「本を売る」ことにどのような矜持を持っているか、マンガのセミナーも、ライブハウスも、その矜持が試されるという点で一緒なんだよね。あくまで商売としてやる人もいるだろう。法的には現時点で何も罰せられることはない。ただし、「法に禁止されていないから何やってもいい」というような殺伐とした世界を、コンテンツに関わる者が望むだろうか?これは当事者の良心の問題。
最後に、コンテンツに携わる我らは結局「人気商売」なんだ、という現実ね。トキワ荘協働プロジェクトに知り合いがいるらしい商業漫画家がTwitter上で「やめろ!今すぐ中止しろ!」とメンション飛ばしてるのを見たときオレは感動した。この人は、漫画というものを本当に信じて、愛しているんだなというのがとてもよく分かった。人気商売って、そういうところ凄く大事なんだよね。いろんな職業があって、たとえば介護職がその仕事で社会にコミットできる可能性はほぼない。けどコンテンツに関わる者ってのは違う。そういうところに誇りをもっていて欲しいわけ。
…長々と書いて、うんざりされている人いると思うけど、ひとたび「ヘイト騒ぎに巻き込まれちゃった」時、当事者は必ずこういうこと考えることになるんだよ。ヘイトという現実をきちんと受け止めているのなら。
その上で、考え抜いた上で、それでもヘイトコンテンツ拡散に関与する人もきっといるだろう。決断はその人の自由だが、その決断がもたらすであろう結果(猛抗議であり、ヘイト被害への間接的な関与)も、大人がやってるんだから確信犯と思うのが礼儀だし、そうなれば少なくとも私は猛抗議することになるだろう。
これからこういう目に遭いかねない人、ちょっと長すぎるエントリになっちまったが、どうか事前にしっかりと考えてみて欲しい。ヘイトってのは必ず被害者を伴うという現実と、あなたの矜持とを向い合わせて、最善の方法を自分で考えておいて欲しい。ひとたび抗議が殺到するとどうしてもムカッとするしあなた自身にもダメージを負うことになる。
抗議を仕掛けて来るのはいわゆる「圧力団体」ではない。お客さんであり、ヘイト被害者なんだよ。

キャバーンビートの代表と話した感想。意見や主張はもうしたんで感想。

前提がものすごく食い違っちゃってるんだよね。と思いたかったが、やっぱりみな、知った上でスットボケていると思うしかなくなって来た。
ヘイトスピーチをめぐるいろんな人たちの動き、のことなんだけど。
ライブハウスCavern Beatに鳥肌実が出演する件で、例によって酷い悪目立ちをしてしまい、大事なフォロワーさんに酷い目に遭わせてしまい、正直泣きたい気分である。
舞台芸に関わる人なら、ミュージシャンでも舞踏家でも演劇人でもラッパーでも、もちろんハコ付のスタッフでもとりあえず一目置いてしまう癖が俺にはあるらしい。それが今回は完全に裏目に出た。
話せば分かる、と思ったんだよ。非難に行く前に話せば、現場の人なら分かってくれる。そう思いたかった。現実は明らかに違った。私がFBで話したのは「代表」というかたがきの人で、もしかしたらマスターとかでない「単なるオーナー」なのかな、と勘ぐってしまうほどに、話から何の矜持も感じ取ることができなかった。
会話なんてのは互いを認め、尊重するところからしか始まらない、というのは持論だし、これまでの人生で裏打ちして来た経験則。だったらまず話さないと、と思ったし引くところは引いたしアタマも下げた。先方に鳥肌九州ツアーをめぐる騒ぎは当然伝わっている。それでも引き受けるというなら舞台人として興味深い発想がそこにあるのではないか、という微かな期待もあった。
向こうの態度は徹頭徹尾、被害者ヅラだった。
テッテ的に白旗を挙げ、あなたがたに危害を加える気はない、というところから始めたオレに対してさえ、徹底的に被害者ヅラだった。何も聞き出せるはずがないし、もちろんこちらから何も伝えられるわけもない。
聞きたかったのはそこじゃないんだよ。彼らが鳥肌という人をどう捉え、今世間で起こっていることを踏まえて尚鳥肌を舞台に上げることの意義を語って欲しかった。共感すれば日頃Twitterでフォローしてる人たちに伝える用意もあった。
けどあれだもの。
どこまで舞台芸術というものをナメてるんだ、という感想しか出ない。
それくらいいいじゃん、で誤魔化せる話なのかどうかは個々人にかかっている。けど前提として今在日ヘイトがどれだけ酷いことになっているか分からん人はそれについて語る資格すらない。小学生が真顔で「愛について」語るようなものだ。
ハコというのは、扱うバンドで色が出るし、そこにオーナーの色が出る。言ってみればブッキングというのはハコの「表現」だと言っていいし、それに異論を挟む者などそうそういないと思う。
そしてサブカルチャーというのは、世間にとってのタブーに体当たりでぶつかることでしか成り立っていない。サブカルチャー表現者は、社会のタブーに触れることで社会からの反撃を受けることと覚悟しているものだし、そのリスクを冒すことによって表現を成立させる。
ハコがそういうものを受け入れる、というのは、サブカルチャー表現者が負うべき覚悟を一緒に負う「共犯者」となることだ。なかなかできることではないし、うまくやれば誉れともなる。何を狙い、何を撃ち、どうしたいのか。
…そういうのが全部「小学生が愛について語る」ようなものだったと知った時のやるせなさったら、なかったよ。

禁煙ファシズムとヘイトクライム

禁煙ファシズム、という言葉を思い出している。受動喫煙で実際害に遭っている人がいるんだからとにかく禁止だ。という主張は理にかなっており、あれがうるさくなった頃には自分もタバコをやめた。きっかけはお気に入りの女の子に「けむい!」というゼスチャーされたからではあるが。
なんにせよ相当ストレスの残ることではあった。「とにかく禁煙!」を主張する者の中には、喫煙の肉体労働者的ノリを嫌悪しそれを単に排除したいだけだろ、みたいな奴がいて、ああいうのには今でも怒りを覚える(喫煙者は圧倒的に肉体労働者など「現場」仕事の者が多い)。正論ごり押しで人を従わせようとする奴ってのは基本的に嫌いなもんで。「とにかく他人に迷惑かけるのはよくないから」とやめた一方で「わかっちゃいるけどやめられない」無責任が許容された時代の空気を懐かしく思う心はどうしても残った。
川上量生がその「分かっちゃいるけどやめられない」ダメ人間のダメっぷりを加護しようとしてるんだろうな、くらいは、どんなバカでも分かってる。川上を叩いてる人みな、分かってると思う。
が、「殺せ!殺せ!ちょうせんじん!」コールを嬉々としてやらなきゃ自分が保てないほどにダメ人間になっちゃいかんだろ。それをやるためにわざわざ歴史認識を捻じ曲げ、日本の対外関係を悪化させ、新大久保や鶴橋の住民を怯えさせなきゃならない。そうまでしなければ晴れないような憂さって何なのか。
さすがに「甘ったれてないでハローワーク行け」のレベルじゃない?
ここ数日、在特会シンパの描いた「日の丸街宣女子」をめぐって「犬神」作者である外薗昌也氏にTwitterで絡んだり、川上を放置しているとしか思えないスタジオジブリに投書したり、とウスラみっともないことをしているが、作品の力と政治性、思想性は別物であることは承知している。いかなる名作だろうと、たとえばその作品が俺みたいな3K労働者は人間の屑、と言うために描かれていたとすれば、俺はその名作ぶりを讃えつつもその作品と、その作者を3K労働者のはしくれとして絶対許しはしないだろう。なにかしらの創作に十年以上身を捧げた者として、作品が「文化だから」保護されるべき、なんて理屈を決して認めないだろう。
川上らに聞きたい。俺のこの姿勢はファシズムと一緒なのか?言論弾圧なのか?
だとすればそれは、あらゆる創作作品に対して受け手が反応を示すことを禁じたも同然だ。