いじめとヘサヨとレイシズム

隣町のいじめ自殺が全国ニュースになって、明らかにいじめっこだった自分としては肩身が狭い毎日だ。職場でも話題になる。「ひどいですよねー」とテキトーに返しながら心はビクビクしてる。なんちゃって鬱病をやった2012以降あきらかにいじめられっこ方面にばかりアピールする文体になってるからネット上でも迂闊にいじめについて口を出せずにいた。が、ちょっとSEALDsに茶々入れるネトウヨヘサヨの姿勢とか見てても思うところあり、この際モヤモヤしてたもんは吐き出そうと思う。フォロワー減るな。間違いなく。
ガキの頃近所に大島くんという大人しくて運動が下手で本ばっか読んでるような子がおって、うちの親と大島くんの親は大親友だった。当然遊びに行く時は大島くんを誘わないと怒られる。そんなわけで野球やるにも釣りに行くにも大島くんに「一緒にいこ」とやるのはオイラの役目だったわけだが、想像つくだろうが大島くんも嬉しくないんだよ。運動下手だから野球もおもしろくないわけだし、釣りだ秘密基地だで連れ出しても他の悪ガキどもとノリが違う。そんなわけで誘ってもいい顔しないわけ。けど一緒に遊ばないと母は悲しむし父は怒る。正直言ってやっかいだった。気が付けばオレと大島くんはいじめっこといじめられっこの関係。中学上がって遊び仲間が近所じゃなくなった時は本当にせいせいした、というのが本音。
世話焼かれたり、「みんな」とおもしろくもない遊びするの、嫌いだろ、いじめられっこのみなさん。そういう面倒なしがらみから離れて、自分の好きなことに没頭していたいだろ?いじめられっこのみなさん。
けどさ、いろんな奴が顔ほっつき合わせて生きてるのが社会じゃないの?
ノリが違う、趣味が違うの差をいちいち社会がフォローして、こういう趣味の人はここ、ああいう趣味の人はこっち、みたいに生きる場を用意してくれるほど町ってもんは広くないって、分かるでしょ?
「僕には僕の世界がある」というのはいいけど「だから僕用の場を用意してよ」とまで当然のように言われたとしたらやっぱりオレは「なに甘ったれてんだよ」と言ってしまうんだな。この気持ちは今でも変わらない。
今のオレが、いじめっこだった小学校の自分に一番言ってやりたいことは「それでも付き合い続けなきゃダメなんだ」ということ。狭い世界で「合わない」ヤツがいたとしても、そこをなんとかうまくやってこうとするのが人間なんだよ。文句垂れながらでもいい。逆に嫌がられながらでもいい。そいつと一緒に生きているという事実をとにかく、肯定するところからしか社会は始まらないんだってことなんだよ。だから「もうアイツいいよ、頼まれても仲間に入れてやんない」となった自分はやはり、ダメなヤツだったと思うんだよね。
見渡せば、そういうしがらみから逃れられない「狭い社会」を嫌がって広い都会に埋もれた子がたくさんいる。同好の士だけでかたまれるネットに埋没した人が山ほどいる。日本中の大島くんみたいな子のなれの果てが「だから僕用の場を用意してよ」から「よし、僕用の場をつくっちゃる」にちょっとだけ進歩して、つくった場で安心しとるのだなと思う。
けど、いろんな奴が顔ほっつき合わせてごちゃごちゃしなきゃ生きて行けないって現実は変わらないんだよ。どこまでもついて来る。就職すればさまざまなクラスタとコミュニケーションしなきゃならない。相手の都合が分からなきゃならない。そういうのは、避けることができないものなんだよ。
「あいつらくだらんもんばっかで騒ぎやがって」でも「自分に自信がないから右へ倣えするんだろ」でもなんでもいいや。リアルでそれ言ってみ?ボロクソ反論してやっから。そうやって、悪口言い合う関係でもいいから、とにかく人間関係を生きようと心掛けてみ?
社会から背を向けて「ぼくのことはほっといてくれよ」と言えるっていうのがこの社会ではいかに贅沢で、恵まれているか。周りを見回して確認してみ?
多様性を認めるってことは、違う奴とは距離を置くってことじゃなくて、違った奴ともどんなかたちであれ一緒に生きて行けるってことなんだよ。
…そうやって後生大事に守って来た「自分の世界」こそを文化だとか思ってる人は、そりゃレイシズムに傾くよなあ。「みんなの生活」のために上げるデモの声がバカにしか見えないだろうな。ネトウヨとかヘサヨとかがみーんないじめられっこヅラしてるのは要するに、そういうことなんだろうな。と思ってしまっている。違うなら違うとこ見せてくれよ。生活の場で。