禁煙ファシズムとヘイトクライム

禁煙ファシズム、という言葉を思い出している。受動喫煙で実際害に遭っている人がいるんだからとにかく禁止だ。という主張は理にかなっており、あれがうるさくなった頃には自分もタバコをやめた。きっかけはお気に入りの女の子に「けむい!」というゼスチャーされたからではあるが。
なんにせよ相当ストレスの残ることではあった。「とにかく禁煙!」を主張する者の中には、喫煙の肉体労働者的ノリを嫌悪しそれを単に排除したいだけだろ、みたいな奴がいて、ああいうのには今でも怒りを覚える(喫煙者は圧倒的に肉体労働者など「現場」仕事の者が多い)。正論ごり押しで人を従わせようとする奴ってのは基本的に嫌いなもんで。「とにかく他人に迷惑かけるのはよくないから」とやめた一方で「わかっちゃいるけどやめられない」無責任が許容された時代の空気を懐かしく思う心はどうしても残った。
川上量生がその「分かっちゃいるけどやめられない」ダメ人間のダメっぷりを加護しようとしてるんだろうな、くらいは、どんなバカでも分かってる。川上を叩いてる人みな、分かってると思う。
が、「殺せ!殺せ!ちょうせんじん!」コールを嬉々としてやらなきゃ自分が保てないほどにダメ人間になっちゃいかんだろ。それをやるためにわざわざ歴史認識を捻じ曲げ、日本の対外関係を悪化させ、新大久保や鶴橋の住民を怯えさせなきゃならない。そうまでしなければ晴れないような憂さって何なのか。
さすがに「甘ったれてないでハローワーク行け」のレベルじゃない?
ここ数日、在特会シンパの描いた「日の丸街宣女子」をめぐって「犬神」作者である外薗昌也氏にTwitterで絡んだり、川上を放置しているとしか思えないスタジオジブリに投書したり、とウスラみっともないことをしているが、作品の力と政治性、思想性は別物であることは承知している。いかなる名作だろうと、たとえばその作品が俺みたいな3K労働者は人間の屑、と言うために描かれていたとすれば、俺はその名作ぶりを讃えつつもその作品と、その作者を3K労働者のはしくれとして絶対許しはしないだろう。なにかしらの創作に十年以上身を捧げた者として、作品が「文化だから」保護されるべき、なんて理屈を決して認めないだろう。
川上らに聞きたい。俺のこの姿勢はファシズムと一緒なのか?言論弾圧なのか?
だとすればそれは、あらゆる創作作品に対して受け手が反応を示すことを禁じたも同然だ。