「自己責任」問答

30までフーテンみたいな生活してたのだし去年おととしと学生なんてやってたわけだが、それでも十年以上社会人やってたんだ。「社会人としての自覚と責任」というものに対してそれなりの実感も共感もある。
なのでやっぱり、自己責任論とそれへの罵倒を眼前にするとムズムズすることがある。後藤健二氏が渡航前に「自己責任です」と念を押していたと知った時には「そうだろう」と思ったし、それが当然とも思った。自分が何かを始めるとき、周囲の承認をとりつけるまでは明らかに自己責任の世界。
しかして、「本人以外の奴がそれ言っちゃいかんだろ」とも思うのだ。上司として部下に「それは自己責任でやってね」と言うのは辛い。辛いどころか「それじゃオレは何のためにいるんだ?」という疑問も湧く。意見がどうしても合わなかったりした時「オレは知らんぞ」という意味でそれを言うことはあったが、それで何かが起きた時、やっぱり追求されるこちらの責任、-なぜきちんと話して説得できなかったか、という責任問題-はどうやったって残るのだ。別に自分のいた会社だけそうなのではあるまい。
植村直己に憧れてた高校時代、土日は近所の丹沢山系にいっつも突撃していた。山岳部の連中とは予定や行きたいルートが合わないことも多く、山行の多くは単独行だった。自分の命は自分のモンだ、と最も叫びたかった年の頃。さして心配もされなかったが、「遭難してもたかが男一匹」と思っていたし、「そうなっても完全に自分の責任なんだからほっといてくれていいよ」なんて言って周囲を困らせていた。
困らせていた、と理解できたのは大人になってからだった。何かがあった時悲しむ人がいる、というのがまずひとつ(親を泣かせるような奴は半人前であろう)。もうひとつは、自分の暮らしてきた社会は、相手がどんなバカタレであっても何かが起きた時助けなければならない、ということ。これを実感を以て理解できるようになったのは人を「使う」立場になった後だった。あしたのジョーや神々の頂みたいな、好きに生きて、死ぬという鮮烈な生き方への共感に距離を置かなければ、自分がこれまで他者からもらって来たものに贖うことができない、と理解した。登る山は自分で選べる。「これくらいなら自分でなんとかなる」という感触を頼りに進むことができる。しかし社会で生きるというのは時として、自分ひとりではどうともならない困難を抱え込むことでもある。そんな、自分の無力を実感した時、やっと自分が他者からもらって来たものの大きさを理解した。
実はこれを白状するのも結構ムズムズする。要するに自分の「マケイヌ」っぷりの白状に他ならないからだ。自分ひとりでなんでもこなせると思ってた頃の方が明らかに目に映る世界はキラキラしていた。そのまま、すべてを自分でこなせる生き方を貫ける人はまあ、確かにそれでいいのかも知れない。が、そんな人はPCやネットがこれだけ普及した現代の、しかも個人主義を後押しするような文明が発展した日本でさえわずか一握りだ。
マケイヌっぷりが板について行き、そうしながら他人とのしがらみを生きる。そんな自分の現実を直視できない奴が「自己責任」を声高に言うんだろうな、と思うし、いちから十まで自分で出来てしまったような「勝ち組」は、それはそれで不幸だ、とも思う。