それでも支持する。そのココロ

なんてことない。不当な何かを押し付けて来た政府に対する「怒り」なんだよ。いつだって。少なくともオレには。
けど、怒る相手が隣のチンピラなら腹据えて怒鳴り込むだけでいいのに、相手が政府になると「なんちゃら主義」だの「どーたらセクト」だのの中で泳ぎ渡らなければならない。目の前に「悲惨」が拡がっているってのにもっともらしい議論とかしてられっか?という気分を見事引っ張り上げてくれたのが、悪名高き(笑)bcxxx氏のしばき隊についてのエクスキューズだったことは紛れもなく、事実なんだよね。
俺は多分、彼の存在がなければ「市民運動」なんてものをTwitterでおっかけることもなかったはずだ。良くも悪くも、政治というものについて、オレはそういう関わりはじめかたをした。
ナントカ主義の表現としての政治行動なんてものは昔っから一切、信用していない。怒りをぶつけ、相手を圧倒しうる、その「手段」をこそ求めている。
で、そんなローIQのオレでも相手が政治だからどうしても構えてしまって、考えるわけだ。たとえばこんな光景。
街をデモが行く。政治に興味などなくても問題なかった昔のデモだ。「彼ら」のことなんか知りもしないし興味も湧かない。そんなときその訴えに「共感」するチャンスはゼロだった。「彼ら」が自分の立っている世界と同じ場所にいるとはとても、思えなかったからだし、彼らは彼らで「目覚めない愚昧な大衆よ」みたいなツラしてたことも否定できるまい。こちらはこちらで、そんなやつらの言うことなんざ誰が聞くか。どんだけ正論吐いてようがしったこっちゃねーよ。と、こうなるのが「デモ」というものだった。
心情的にどーしてもTDC界隈の言葉に共感(曲解、かもしれんが)してしまうからそりゃまあ贔屓目は相当入ってると思うけど、オレがTDCの動きをどう見るかというと、今書いたような、道ゆく誰の心にも響かない、どころか反感すら湧かすようなデモを変えようとしているんでしょ?と、なってしまうのだ。それが曲りなりにも「成っている」ことに痛快を覚えるのだ。
だって、そうなっていることの価値はもう、計り知れないほどにデカいじゃないか。
本当に一般の市井の人が政治に怒っている、という今の日本の状況が後押ししたのは間違いないけどね。
新しいことをやる。今までの失敗を踏まない。という点で力みすぎたのかもしれんなー、既存の運動を「挽き潰す」と言い放ったことにすら、そのように解釈したがっているオレがいることをだからオレは告白せざるを得ない。
だから、それほどまでに好ましい彼らの動きが、リスペクトして来た他の運動とガチンコしてしまったことが本当に残念、ということになる。「挽き潰す」はいくらなんでも、と思ったけどね。
ただ、昔ながらの「オレってインテリ。マルクスも読んでないくせに運動とか言うな」とかいう態度が丸見えの、世界の痛みなんか何も感じ取っちゃいない「運動家?」なんざ「ブルドーザーにツブされちまえ」と思っているのもまた事実。怒りの現場から出て来ていない、書斎で学んだ「世界?」をこねくりまわして喜んでるだけの奴が「運動家」を名乗っていたせいで、日本社会は政治というものを「しょうもない知識人気取りの連中の趣味」と錯覚させられて来たのだ。怒りの現場から生まれて来た運動と彼らが「共闘」なんて有り得ない。
許し難い政治の圧力の現場に怒り、それを自分がなんとかするにはどうするか、ということを本気で考えた人は、TDCがやろうとしていること自体に否定的にはならないだろう、と、やはり思っている。ブルドーザー、という単語が絡んでいなければきっと沖縄の人だって、その価値だけは否定しないだろうと信じている。