残念過ぎて

社会的なポストを巡る「争い」に、「暴力」でないものなんてない。
地方都市にはそれなりに残ってる中小企業規模の小売店。近所のライバル店との客の取り合いはその敗者に致命的なダメージを与える。夜逃げ、自殺。相手の人たちの生活が、下手すると生命そのものが死ぬ。これの悲惨を知らぬ人が「平和的解決」などとほざいたところで、その「平和」が実像を結ぶことは絶対に、ない。
そういう「競争」が相手とのタマの取り合いになりにくいくらい世が潤っていればよいが、現政権はその逆を行こうとしている。戦争はダメで自由競争はオッケーなんてオレは口が裂けても言えない。少なくとも今の世の中では。
TPPが「黒船」って、それ全く比喩とは思ってませんもん。
「人を殺してみたい」若者よ、警察に追われることなく人を殺す手段なんて、今の世の中いくらでもあるんだ。早まるでない。
…で、「非暴力主義」ってなんなの?カトリックの信者でなくても、自分らの生活がどれだけの犠牲の上で成り立ってるか、くらいは理解しとく必要があるんじゃないのかね?理解した上で、それでも本気で「非暴力主義」を唱えることができる人ってのは物凄い人だよ。それは周囲が「あいつもう殺るしかねーよ」となっている時に「それでも」と相手を説得し続け、説得し切る力を身に宿している人だ。説得された相手が結果的にその生活にダメージを負ったとしても、そこに手を差し伸べられる人だ。そういう人間であらんと、日々自分をけしかけている人だ。
さて、ここで問題。かつて「平和的な」運動をしても実を結ばなかった人で、「人を説得し切る力」をその後磨くことをしなかった「運動家」ってのは何か。
「反省がないバカ」か、もはや運動に参加する気がない「ヒヨっちゃったひと」。そう言うしかなかろうよ。
そういう手合いが後輩たちの輪に入れず、若さゆえの荒々しさを「暴力的だー」とかなんだとか。いくらなんでも自分で分かるだろうに。クズ過ぎるって。
そういう「先輩」のいちゃもんを一身に浴びてたんじゃないのかね?「彼ら」は。だから本当に身を切ってやってる人の声も、届かなかったんじゃなかろうか。
これはやっぱり「彼ら」への贔屓目でしかないんだろうかね。
今日「アンチドーザー」の中で、一本筋の通った現場の人とやりとりする機会があった。
とても残念な結果となった。
残念過ぎて、↑のような妄想をしている。