「アンチドーザー」な方々

アンチドーザーの人にも種類があるようなので前記事を補足して置く。
まず「ブルドーザーは権力の象徴」という考えの人。以前からそう思っていた人も確かにいるようだ。が、一生懸命ブルドーザーの「穴」を検索してタタく材料にしている人の方が圧倒的に多いと見る。
次に暴力そのものがとにかく大嫌いな人。「力」とか、そういうキーワードには拒絶反応示す。これはもう言語道断で、じゃああんたらは何をどう「する」つもりなのかと聞くしかない。暴力であれ経済力であれ人間力であれ、何か「する」のには力が必要でしょうが。安倍らが「話を聞かない政治」を振りかざしている中、平時なら温厚だった連中がニュースを見てブチ切れているのが現状。それくらい生活そのものが破壊されて来ているという危機感とは無縁な日和見主義者と見做さざるを得ない。または、幼児体験とかで「力」を生理的に憎んでしまっている人。前者はもうどうしようもないが、後者の人は考えて欲しい。無血だろうが選挙結果だろうが、現体制の転覆が成るということは、今まるまると肥えているクズどもを地獄の底に叩き込む「暴力」であることに変わりないのだ。多くの下流に月十万生活を強いているあいつらは、月十万生活なんてやればあっさり生活破綻して自殺とかするだろう。現在「反体制」の旗を持つというのはそういうことなんだ、という自覚があるか。
あとはブルデモ主催者界隈への個人的な恨みの人。ハンパに事情通だから始末が悪い。つか、なにかしらの「運動」の主体であったことがあるなら、せめて「あっちはあっち」という意識でいられないもんなのか。実際そういう人たちはいて、ドーザー騒動を尻目に自分のスタンスで動いているのをみつけると本当に心強く思う。主催側であるところの某匿名有名人氏の発言ひとつひとつ、すべて正しかったとは俺も絶対に思わないが、人間ってそういうもんでしょ?なんで彼らにだけパーフェクトを望むわけよ?依存心があるから、以外の答えを出せるなら出してみればいい。
とにかく「大衆受けする運動」という指向性そのものが気に食わない可哀想な人も多いようだ。政治を語るというのがサロンで互いの知性を讃え合うことでしかないから、自分が「知的」とみなしていない界隈から出て来た言葉にはとにかく難癖をつけてしまう。ネトウヨと一緒で、彼らが変えたい「国」は妄想の中にしか存在していない。
そういう連中の言葉がTLに埋まる。一日目には興味深く読むだけの目新しさがあったが、毎日になるとたまったもんじゃない。
まともに考えて、もし自分が主催者なら「ブルドーザーは権力の象徴」とずーっと思って活動して来た人たちだけとは話ができるかも、と思うだろうし、それ以外の連中とは「会話が成立するわけがない」と見做すだろうな。彼らは別に「民主主義国家のドン」でも何でもない。日本で起こっている不条理に怒り、行動しているいち市民に過ぎない。いち市民として生きて来たスタイルがあり、それに基づいた行動をしているに過ぎない。なんでいちいち他人から流儀を押し付けられなきゃならんのだ、くらいの気持ちは当然あってしかるべきだろう。
個人的には、もっと早い段階で、真っ当に運動している(例えば沖縄の)人の口から「ブルドーザーはやめてくれ」という申し入れがあればよかったのに、とは思うし、逆に言えば、そのようなかたちだったらあっさりブルを撤回する可能性だって大いにあったと見る。そうスムーズに話が運ばなかったのは、(誰かが言ってたみたいに)周囲に挑発的であった彼らの自業自得なのかもわからん。
けど地方人として彼らを見守るこちらからすれば、「じゃーあんたらに任せれば今の日本はよくなるの?なんも期待できないのに誰かの「動き」をけなしてるだけの人間は去ってくんない?」と言うしかない。反暴力を唱えて来た人にとってはこの状況は自身の「反暴力的世直し」を実践する絶好のチャンスなんだってことくらい分かってるはずだ。政治家よりはずっと近い位置にいるbcxxx氏たちから矛を取り上げることもできずに何の反暴力か、くらいは言ってもバチは当たらないとオレは思う。