「平和主義」は「生存権」を守る。生存権は人類を守る。

911後のイラク派兵の時どうしても反駁できなかった理屈がある。
「同じ同盟国の兵士がどんどん死んでいるのに日本人だけ高見の見物なんて許されるのか?」
今はマスコミすらが輪郭をぼかして報道している集団的自衛権を国民が正確に理解したとき、多分最も手強く残る容認派の論はこれに集約されていくものと思われる。手強い理屈であるにも関わらずこの理屈を大本営連中が前面に出さないのは単純に「自分らはアメリカの手先として動くしかありません」という告白をしたくないというのもあるだろうが、この理屈では「戦争いやです」という生理的な反応を抑え込むことができないと読んでもいるのだろう。
だからそれはそれでいい。「実際に戦争へ行くなんてイヤだ」で安倍が止められればそれに越したことはない。戦争反対というプリミティブな叫びを、あの平和ボケと呼ばれた日本人がいよいよ本気で叫び、棚ボタ的に拾った平和憲法の価値に気付いた、という事実をもっともっと全世界に発信できれば何かが違って来るかもしれない。
しかしそれでも安倍みたいな連中は残ってしまう。自分が血を流すのがイヤで逃げたひきょうもの呼ばわりと、根強いナショナリズムは顕在してしまうだろう。結局のところ日本は一億総中流と言われた呑気な時代には戻れない。そのことだけはもう自分は覚悟した。
結局今日本の産業は軍事に頼るしか外貨を得られないんじゃねーの?という読みは秘密保護法の頃に述べたとおりだが、これは軍事国家化やむなしという主張ではない。平和の維持に必要なものは軍隊ではない、と言い切れるだけの何かを全世界に発信する必要性、切迫性は増すが、チュウゴク相手に戦争するよりよほど勝ち目のある賭けだと今でも思っている。その発信を以て「国際貢献」ではなく「世界平和」に貢献する道筋を、これからより一層本気で作り出す必要がある。でないと安倍らは黙らない。
今、まき散らされた放射能をなんとかするためにがんばって研究しているすべての人にエールを。
今、経済のグローバル化なる流れの中でも価値あるローカル性を保ち続けるため試みを続けるすべての人にエールを。
ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカが突き付けた"人類の望む経済規模をフォローしきれるほど地球は大きくない"という現実を見つめ、このような時代を迎えた人類が「安価に」全世界で暮らす方法を考え続ける学者にエールを。
人類は「考えて、対策する」ことでしか自然に打ち勝つことはできなかった。だからこそ人から「生きるために考える」ことを止めさせる圧力は人類にとって悪なのだ。だからこそファシスト政権は、だからこそ集団狂気を保たないと成立しない戦争は、悪なのだ。
生きるために考えることができる社会を望む。たぶん、生存権なる説明しがたい権利が全世界でもてはやされる理由はこれだ。
国家による戦争は、限りない格差社会は、9条以前に35条に違反する。
「平和」は「生存」に必要だ。というあたりまえの命題こそが9条という特異な条文を全世界に共感させうるし「戦争がないことが平和なのか?」という屁理屈を赤面とともに引き下がらせうる。