明治三陸地震の日

1896年の今日、明治三陸地震が起きている。これは震災後大フィーチャーされた昭和三陸地震(1933年)ではない。「三陸津波」と聞くと明治のそれであることが多いが、結構昭和のと混同されていたりもするから注意。
明治で死者行方不明者2万1959人、昭和で3064人。昭和が少ないのは津波の規模が明治の方が大きかったことにもよるが、住民の意識から津波への警戒心が消え去っていなかったことも関係しているという。
その割に、例えば田老はそのどちらでも壊滅的な被害に遭っている。昭和のそれで住民の四割が死亡。家屋に至ってはほぼ全滅だったらしい。
それにしても、37年の間に二度もの大津波にさらされている三陸という地方の凄さ。今の感覚で言えば「なんでそんなとこに住むの?」となるのだろうが、そこが日本一と言えるほどの漁業地帯であったことを考えればそんなことは言えなくなる。今で言うなら仕事を求めて人が東京に集まるのと理由としては変わらないのだ。明治以前にも長い歴史がある。漁業に加え、豊富な鉱物資源に恵まれており、例えば奥州藤原氏の繁栄の基礎となった金は北上山地から出た。金のみならず、今でも「新日鉄釜石」という名前に聞き覚えがある人は多かろう。釜石に行くとでっかい坑道が今でも残っているはず(震災後行っていない)。オウムの教祖がヒヒロイカネなる金属を発見したと言い張るのは釜石の五葉山だったそうな。三陸=鉱物的なイメージがどこかしらにある地帯でもあったということ。
危険だろうが、そこで住む。そこで住まざるを得ないのなら、そこで楽しく生きる。食って行くため、その生を充実させるため。そういう凄みを感じざるを得ないのが三陸海岸という場所だ。
平成大凶作のとき、秋田の大館で農家やってる家の息子に「これが100年前だったらこのあたりは地獄だっただろう」と聞くまで、自分らの文明生活への依存度について考えることはなかった。今、三陸にへばりつかなくても、ただ生きて行くだけならなんとかなるだけの仕事が日本中にあることを好ましくも思う。しかし、それが国策的大企業の誘致やら大規模ショッピングモールによるものやらによって「政府のさじ加減で壊滅的な被害を被り得る」ものであることについては疑念を持たざるを得ない。そこへよりにもよって原発事故が起きた。政府のさじ加減が自然環境までぶっこわした結果、辺境に生きる者は「あいつらは好きにやらせとけ」と言えるだけの余裕を失った。日本政府がこの地に残す爪痕は「災害」と呼ぶにふさわしい。「三陸産」と書かれた水産物なんて誰も喜んで買いはしない。
今後彼らはどう生きるのか。困難な場所だろうと逞しく生きようとするであろうことは想像に難くないが、その困難が自然によるものか、国家によるものかで反応は違って来る。生きやすい場所の条件も変わって来る。