やりがいのない仕事なら報酬にうるさくなるしかないのが労働者

勤め先のデイサービスには存外金持ちが多い。男女比率は圧倒的に女性が多いのだが、数少ない男性利用者の中に会社経営してました、なにかの役員してました、みたいな人がゴロゴロいたりする。
介護職というのは、それこそ下の世話までやるからなのか、妙に利用者から「買われる」ことが多いようで、「君みたいな人はこんな労働者やってないで事業を始めるべきだ」みたいなことを何度も言われることになる。「こんな労働者」がいるからあんたらここで安心してられるんだべや、みたいなツッコミはまあ、愛する利用者さまだから控えるわけだが、彼らが例外なく感じている「こんな労働」という見下した目線にはほとほと、参る。
要するに経営やってる連中は、肉体労働、時間で区切られた仕事というものに妙な偏見を持っている、てことだものな。
彼らがほぼ一様に話すのはこんなこと。

これ、というものが見つかったら「オレなんかに」とか思ってためらってないで踏み出さなきゃダメだ。そこで人の値打ちは決まるのだ。踏み出せばカネを出してくれる人も出て来るし、ついて来てくれる人も出る。オレはそのようにしてわが社をあそこまで育てたのだ。

不思議なくらいみんなこういう話をする。見方を変えれば彼らが「労働者」の上に立つ者である、という自負を支えて来たのはこの「踏み出した」という一事なのかもしれない。
けどなあ、その一事が分かつ「経営者」と「労働者」の差が、今現在ほどの惨状になると流石に、笑ってられないんだよね。
あれこれチャンスはあってもしがらみで労働者で居続けた人もいる。労働そのものに生き甲斐を見い出した人もいる。労働者みな「いやいやながら出勤して17時になるのを待っている輩」だったら日本はとっくにツブれてますっての。
「人に言われてやるのは作業であって仕事ではない。仕事というのは自分で考え、作り出すものだ」
これ、オレの初めてのバイトである教材売りの会社でうるさいほど言われたことだよ。バブル期の、ちゃらけた学生バイトですら「そうだよなあ」と思いながら働いてたよ。「経営」なんて世界に行かなくても、現場の人はみな自分らの仕事を自分らでつくり、そうやることで経営者の目に届く数字を挙げて来たんだよ。
よい経営者は労働者のそういう様を知っていた。知っているから(たとえカネは出ししぶっても)労働者にエールを欠かさなかった。意気に感じて労働者もエールに応えてよく働いた。戦後の日本で労働運動が盛んにならなかったのは、なんだかんだでそういう経営者と労働者の「関係」ができてたからだと思うのよ。決して「民主主義に対する意識の高さが足りなかった」なんてシロモンではなかったと少なくともオレは思ってる。「○○のためなら」「仕事が生きがいだから」労働者がそう言える空気を、経営者も作ろうとしていたということ。バブル絶頂期というのは過労死が社会問題として大フィーチャーされた時期でもあったのさ。あれは景気どうこうの問題ではないということ。
ところが21世紀を迎え「経営コンサルタント」とやらが跳梁し、労働力はたかが部品扱いとなり、仕事は徹底的に「合理化」された。労働者のモチベーションを「カネ以外」すべて奪ったのがこの流れだと言ってよい。
仕事からやりがいを奪われた労働者はその労働の意義を金に求めるしかないわな。けど、そういう経営をして来た経営者が、労働者に「カネのことしか考えない最低野郎め。仕事はもっと尊いものだ」とか言い出したら、それはもうどうしようもなく「お前が言うな」でしかない。ブラック企業は九割九分九厘、経営がつくりだすものだと思う。
すき家ストライキが話題になったとき、「日本の労働運動もここまで来た」とか持ち上げて語ってる人がいたけど、あれってそういうもんじゃないと思うよ。世の経営者というものがあれだけ労働者をコマ扱いするようになった今の社会では、反動もこれまでになかったかたちになったってだけ。たかがバイトくんがブチきれるほどに日本の経営者というのがクズになって来たってだけだと思う。