学者、言い切る。

昨夜映画「天国の門」についてぐっちゃらぐっちゃらひとりごとツイートをしていたが、今日になって名古屋の映画館で「天国の門」がちょうど今上映されていることを知った。シンクロニシティとかなんだとかに繋げたり「奇跡のような偶然」とか騒ぐ気はない。Youtubeで映画音楽の動画を探していたらたまたまこの映画のサントラがFULLで上っていて大喜びしたのがこちらのツイートのきっかけ。ならば名古屋での公開がYoutubeの「関連する動画」のレートを引き上げて、うまいことオレの目に触れる場所にあの動画を持ってきたというだけなのだろう。インターネットにはこういうことがままある。
さて、再び茂木健一郎のツイートネタ。

私は、ある人が、特定の認識を持つことを、そのような言葉で批判しようとは思わない。もちろん、科学的なデータの提示はする。しかし、ある人に「これが正しい」と認識を強制することなどできない。

美味しんぼに関する二度目?の連ツイでの言葉だ。ちょっと、不用意に、重すぎる。
学者というのは「○○学ではこうなる」を見つけ出すのが本義であるがゆえ、「自分の言葉に責任を持つ」ということに無頓着なのではないか、ということを以前書いたが、まるでその言葉を待っていたかのように(もちろん「天国の門」の件以上に偶然なのだけれど)この言葉。うーん。
なんぼ「学者の言うことを鵜呑みにすんな」と言って来たオレでも学者の言うことだからと信じて来たのだし、学者は学者で「オレの説こそが正しいんだ!」と言い張れるように熱を入れて研究しているものと、漠然と信じて来た。「学者は自説への責任感がないよね」は、自分にしてみれば「もっとちゃんとやってくれよ」の言い換えであることは否めなかった。
ところが日本の「学者」でもっともポピュラリティを持つ一人である彼が、

ある人に「これが正しい」と認識を強制することなどできない。
と、あまりにあっさりと言ってのけてしまった。これには閉口せざるを得ない。だってこれは
自分の研究がもし間違っていても責任は持たない
ことの言い換え以外の何者でもないからだ。
言われてみれば確かに正しい。科学というものは「これこれという前提でこのように考えるとこのような結論になります、どうでしょう?」の積み重ねであることがタテマエになっている。研究者の名前などその積み重ねの中では大した意味はない。たまに「実証された!」みたいな大発見が出て来るが大抵それは新たな「前提」の確証を得た、なのが昨今で、これは地理学における地誌学的なことだ。人が困った時に科学の成果に期待して「これはどうなるんだろう?」と学者に訊ねるのは「○○学ではどうなるの?」と訊ねることと同義だし、答えた学者は○○学の成果そのものを伝える。学者が伝えるものの正しさは○○学の正しさであって学者の正しさではない。
けどならば「非科学者」は、科学の成果にすがりたい場合常に「学者に訊く」のではなく○○学の成果を参照して自分で判断するしかないのか。実際原発事故をとんでもない執念で追っているおしどりマコさんなどは論文を読み、自分で調査までして東電のウソを監視しているが、嘘が渦巻いていそうな原発事故のような分野だからそうせざるを得ないのであって、そこまでやらんでもマシな学者に訊けばいいじゃない、というのがごく常識的な人の対応だったろう。テレビには何かあればその道の権威である学者が出て来てなにやら説明して行く。
学者ならその件について正しいことを知っているだろう、という期待をしかし、茂木健一郎はもはや「するな」と言った。上引用はつまり、そういうことだと認識するしかなかった。
正しい認識にせよ、もうちょっと、ためらって欲しかった。欲を言えば、今の世の中が学者に対してしている期待の大きさを噛み締め、より研究に燃えて欲しかった。