よいバカと悪いバカ

首相官邸前が気になって仕方ないが、こちらはやれることをやるだけ。
田森氏のことで行きがかり上メンション送ることになった茂木健一郎氏が今朝やった連ツイがおもしろい。世の中には良いバカと悪いバカがいて、よいバカは周囲のことなど気にせずやりたいことをやってしまうが、悪いバカは誰でもツッコめるよいバカの行いに誰でもできるようなツッコミを入れ、しょうもない自我を満足させているだけ、というもの。
見ようによってはこないだのおいらの田森氏へのツッコミを揶揄しているととれなくもないが、あれだけのフォロワーを抱える彼がいちいちこちらの言動に腹を立てるとは思えない。もし万が一そうなら、影響力の強い学者が「はっきり分かってもいないこと」をさも自明のこととして語ることが美味しんぼ騒動の渦中においてどれだけ危険な迷惑行為かを説明するだけだ。あのデマが広まらなかった結果さえあれば、あの件について俺は「悪いバカ」で一向に構わない。
そんなことよりこの連ツイについて書きたい。なぜって俺自身あのようなことをしょっちゅう考えるし、自分に悪いバカになるな、良いバカであれと(まあ言葉は違うが)言い聞かせて生きてきた者だからだ。
自分が論理をけなして来たことにも関連する。行動すれば論理的破綻なんて当たり前にするものだし、そういうことをいちいち気にしていたら大したことは出来ない。何度も引き合いに出す飲み屋で遭った「やっぱり自民」のおっさんの話で、一番共感したのは「物事を動かそうってときにいちいち原則論気にしていたらやってらんないんだよ」というひとことだったことは既に触れた。そうやってギロンばっかりで批判ばかりの姿を共産党と重ね(これはいわゆる偏見であったが)、世の共産党的なものに対する嫌悪の根はこれじゃないのか、なる屁理屈を吐いた覚えがある。要するにギロンで分かったような気になって行動する者を揶揄してるばかりの人間はクソだ、というのがおいらの「論理嫌い」の根っこであることは自覚している。
茂木氏の連ツイで興味深いのは、それを(俺にとっては)ギロンだ論理だをありがたがっている人が言ったということ。言ったこと自体はむしろ自明なことで、例えば「世の空気から外れれば叩くのが日本。私はそんなものに負けません」みたいな言説はネトウヨも、プサヨも、いじめっこもいじめられっこも経営者も組合も政治家も革命家も、みーんなが吐くのである。そのとき彼らが唾棄しようとする「常識に囚われたニホンジン」とは具体的にどのような層であったか。少なくとも茂木氏のような学者にとっての「それ」について考えてみることには興が乗る。
少なくとも自分みたいなどうしようもないバカは、「テメエはバカだけどテメエがいなければこのようにできなかったからな」という仲間の言葉に慰められて来たし、「バカだけどこれだけは」みたいなことに自分のしょうもないプライドを満足させざるを得ないところがあった。自分が突っ走る度に、その尻拭いに付き合わせてしまった連中への申し訳なさを失なったらオレはバカ以前の最低のクズだよな、という自覚を常に弁解のように繰り返して、それでもバカをやりつづけずにはいられなかった。
分かりやすく言えばね、今の日本で一番有名な「良いバカ」は安倍晋三なんだよ。「良いバカ」だから素敵なことをやるなんて思っていないのよ。こっちは。
だから「こりゃいくらなんでもいかんだろ」となれば、オレはいくらでも「悪いバカ」に豹変する。良いバカでありたいけどまわりが強烈過ぎて自分がハジケる隙なんてないわー、みたいな人だってたくさんいるんだよね。起きてしまった現実、今起きている現実を厳しく受け止めるならそんなこと言ってる余裕はない、という人もそこらじゅうにいるだろう。その基準は自分(ら)だけのもので、とても「論理」なんてもんにできるような代物ではないが、それでもこのことは自分の中で最も信頼に足る行動基準のひとつであり続けている。
そんな私はその「説明不能」さ故に、こういうことをなかなか表に出しにくい。けど論理が大事と昨日も言っていた茂木氏にとって、この「よいバカと悪いバカ」の世界はどのように説明可能なものなのか。ていうか彼が今、何を思って「よいバカと悪いバカ」を語ったのか。(まさか安倍?)
できることなら知りたいものだ。