井戸川氏という存在の大きさ

とりあえず報告。田森氏から返答はない。そんなわけで、少なくとも「ヒロシマナガサキの膨大な資料から放射能と鼻血の関係はデマだと確認されている」というツイートにはどうも何の根拠もないらしい。多くの人がこのデマに乗っかって事態をさらにややこしくさせることがなくなればそれでよし。「ガクシャを名乗る奴の言うことを鵜呑みにしてるとロクなことがない」という自説の恰好のサンプルになってくれた彼の労を、私だけはねぎらうことにしよう。年甲斐もなくガラでもない実名告発を敢えてした甲斐があったというものだ。
美味しんぼ」騒動、というか美味しんぼ自体はどーでもよくて、ほかにもツッコミどころは山ほどあるだろ?と思うのに話が「鼻血」に集中したのは要するに井戸川という人のインパクトなんだと思っている。
脱原発は未来の方向性であり、政治である。だがそれに含まれるようで、全く別箇の存在として「福島原発事故」を捉えざるを得ない。彼の存在がみなにそうさせる。
事故には加害者と被害者がいる。あたりまえだが被害者がどんなに「論理」にすがっても、出てくるのはどうしようもなく被害者の自分だ。政治に目を向けてみても所詮少数者である彼らを政治が救うはずもない。
怒ってるだろうな、やりきれないだろうな、と皆どこかで思っていたはずだ。しかし福島の人の怒りを実感させられる局面なんて皆無と言ってよかった。事故直後には東電に抗議する被害者町民、みたいなシーンをテレビが映し出していたし、目のある人なら福島の人が国会議事堂周辺でデモをしていることを知っていただろう。しかし、例えば放射能漏れ事故の後2chを眺めても福島からの書き込みは不自然さを感じるほどの「皆無」で、かえってそれが不気味だった。まして名のある人が、己の身に起きた症状をさらけ出しながら、怒りの言葉を「こちら側」に吐いて来る、という経験は全くと言っていいほどなかったはずだ。
しかし事故から三年して井戸川氏が現れた。政治としての脱原発の使者としてでも、論理として放射能の危険を訴える者でもなく、「被害者」として現れた。「美味しんぼ騒動」というものの根っこはその「被害者」という新たな立ち位置が、無視できない場所に立ち現れたことへの「忌まわしさ」であり「拒否反応」なんだと思う。
オレも改めて思ったもん。脱原発が成されたとしたって原発事故の被害者が救われるわけではないって。そんなこと当たり前のはずだったのに、頭から切り離して考えている自分に気づかされたもんな。
同時にやれ建設的な意見だ論理的な反論だに対して感じていたうさんくささが明確になった。政治はすりゃいい。理論なんてどこまでも上滑りしてればいい。だがそれは、あの場所で泣いてた人のためでもなんでもなく、自分らのためでしかない。福島原発事故の「解決」は、そんなもんとは別に誠心誠意成されなければならない。
井戸川氏の存在そのものが自分をけしかけて来る。同時にやっと、どこか福島に対して持っていた後ろめたさのようなものに対するカケラほどではあるが「罰」が来たという安心感のようなものがある。
どこか麻痺した頭でなく、感覚に全く訴えて来ない論理や政治論でもなく、自分の身ひとつでフクシマを受け止める、希少な機会が訪れたのだと思うことにする。あくまで井戸川氏。美味しんぼはトラメガみたいなもんだろうさ。