バブルの申し子的言論人のこと

連休もらえたのは嬉しいんだけど、初任給が出るまではあまりの金のなさに身動きがとれん。そうだった。転職というのはして最初の月がむっちゃ大変なのだった。
都知事選の田母神票が一番多かったのがおいらの世代。どういう世代かというと、「この世に絶対に正しいことなんてなんもないのだ」と言ってれば知識人と呼ばれた時代なんよ。戦争は負けた。ソビエトまで崩壊した。学生運動も変な形で尻すぼんだ。世界や社会になにかの主張しようにも必死で心の底から叫べるテーゼなんてなにもない。あると思ってるのは勘違いくんだけ。そう言い聞かされて育ち、生きて来た世代なんよ。
おいら元もと世代論って嫌いなんだけどねー、今ネット上で「冷笑主義者」とか呼ばれてる人たちって、なんか同世代の臭いがして、特に「言論の世界」に夢見ちゃった人なんかは自らを世界の潮流とやらの中に位置づけるという奇妙な習性があるんで分かりやすいのだ。
あいつら、「キミ等はこういう世代だろ?」と言えばきっと喜ばない。それくらいのプライドは持ってる。けど自分が必死でやってきたことが「自分自身の紋切型化」だったことは事実だからそこは飲み込んでもらわないと。
(余談だが、だからこそ芸術サイドの人と言論の人の間にはとんでもない溝があった。ああいうくだらない連中と同じに扱われるなんてプライドが許さんという気持ちが(少なくとも自分の周りには)明らかにあった)
でね、ああいう「正しいことなんてなにもない」の人たちが、今必死で社会を変えるために行動してる人たちを見ると、そりゃあ、イヤだろうなあって、思うし分かる。共感は絶対しないけど。だってやつらは今でも「絶対の正義や大義なんてない」って思ってる。だから自らの大義を公然と語り、それを行動でもって証明して行く今の若い人たちは彼らにとっては「あってはならない」人たちなんだよ。加えてああいう連中はほぼ例外なく書斎派だ。街でナニが起きてるか、なんて知らない。原発事故のことも、被害者の泥臭い言葉なんかには耳を塞いで、技術論や文明論として語る。そうしなきゃ語れない。本の中で出て来た概念をひねくり返すことが世界を語ることと思っていて、悲鳴や傷だらけで倒れた人、生きる手立てを失って立ちすくむ人のうごめく「現場」に切り込む手だてを持っていない。(そりゃ、例外はいるわけだが)
今の若い子の「運動」は逆で、現場に立ち現れた惨状への怒りから始まってる。話が合うわけがないのですわ。
現場というのは多少なりとも荒々しい言葉が飛び交うところ。そういう言葉が若い運動家の言説に含まれていただけでもうダメ、という現象が起きている。なぜか。彼らにとって世界を変える言論は片手にティーカップなんぞを持ってサロンで語り合う言論以上のものではないから。(そりゃ例外はいるわけだが)
カウンターに寄り添う有名人には写真家、ミュージシャン、デザイナーといったアーティストクラスタが多い。論壇でがんばってた人は佐々木中くらい?左派ちっくなマスコミ人、言論人は大体距離を置いてるようだ。なぜって要するにそういうことなんだろうよ。
だから、というと語弊があるが、田母神をありがたがってる連中があいつらだ、と知った時には苦笑だけでなく、それこそ語弊があるが「見直した」気分があったりして。
おめーらにもなんだかんだ言って身体から来る恐怖感みたいなもんがあったんだな。だからこそおめーらのサロン憂国ワールドの語彙に含まれ、かつ「力」の世界に対抗できそうな「軍隊」という概念にすがっちゃうんだろ。生きてるんだか死んでるんだか分からんような場所でうだうだしてた昔と比べれば大した進歩だと思うよ。行く方向が斜め上なのも、考えてみればおまえららしい。
あいつらに言ってやりたいことは、若い頃から積もり積もってるおいらです。