メッセージソングが嫌いだった(後編)

ものを造る場で「あいつさえいなければ」は禁句だ、と、自分は信じている。
それはもちろんどうしようもない厄介者だった自分を認め、掬い上げ、使ってくれた先輩方への恩の裏返しでもあるのだが、そういう個人的な事情をおいても、やはりそう思う。
いろんな奴がいて、いろんな欲を満たさんと活発に動いている。自然、さまざまな争いが起きる。それは当然起きる。けどそこで相手の存在そのものを「消えてくれ」と願うことほど非生産的なことってあんまりない。ものをつくる場であるのなら、そいつの存在そのものをひとつのモチベーションとして、顔を突き合わせてやって行く以外に、自分が胸を張って生きて行く方法なんてないと、経験上知っている。
だから、ほとんど唯一と言っていいだろう。自分の生きる場で、排斥すべきは「あいつさえいなければ」という発想を声高に言ってはばからない輩なのだな。
そいつに足を引っ張られることもあれば、そいつに新しいことを教わるかもしれない。
なにをどうやっても相容れない相手なら、そこに自分にとっての解決すべき何かが見せつけられている可能性は高い。
だから、まずは付き合うだろう。さんざん文句を垂れながらも、罵詈雑言を吐きながらも、そいつに「いなくなれ」と思ってしまえば負けだと自分を鼓舞して、会えば挨拶するだろう。モヤモヤを打ち消すように絡み続け、分かろうとするんだろう。他ならぬ自分の、人としての矜持がそうさせるのだ。
ヘイトを叫ぶネット上の言説のナニがいけないって、そういう人としての矜持が、そうやって生きて行く彼らの生活が、言葉の裏から全く見えて来ないんだよ。ゴタゴタしながら暮らしていく営みに対して目線が上からなんだよ。共感しようがない。
街っていうのは、いろんな人が良かれ悪しかれ肩を寄せ合って活きて行く場所で、だからこそ街は「うんざりもするが、立ち上がらせてもくれる」場所であり続けた。
そういうバックボーンが何もないままに「日本を守れ」「朝鮮人出て行け」と言い切れる人たちは、だからもう、敵でいいや。「いろんなものがある」ことの価値が分からず、自分の肌に合わないものを排斥することが社会をよくすることだと考えるようなおこちゃまにだけは、「消えてくれ」と平気で言える。
この記事を血を吐く思いで書いた時は、eastern youthの吉野さんの言葉が分かっていなかった。
けど、あの言葉の真意がこういうことなら100%支持できる。
…なんだかよくわからん日記だろうが、Twitterに復活したbcxxxさんのツイートで吉野さんの4/15の日記を知り、それがあまりに自明のこととして呑み込めた自分に驚いて以来ずっと考えてたのです。この記事を書いた自分は変節したのか?ネットに毒されたのか?と。けど分かった。
ヘイトは多様性への冒涜だ。ごちゃごちゃした街を愛する私は、だからこそヘイトを憎む吉野さんの言葉にためらいなく共感する。