土地ころがし、カネころがし、フンコロガシ

今日、施設の利用者がこぼしてたこと。その方は膀胱に異常があるためバルーンカテーテルからの採尿袋で排尿をしている。カテーテルであり採尿袋というのは常に身体に装着されているものであり、かつ排泄物を常に持ち歩いてるようなもんなので、そういう処置をしているというのが分からないように工夫すべきであることは介護福祉士のテキストにすら載っている基本的なこと。彼の場合採尿袋を丸めて小さくすることで、持ち歩いている肩掛けかばんに採尿袋を入れていたのだが、最近「勝手に変えられた」という新型の採尿袋は丸めることができないように骨的な棒がかまされていて、よほど大き目の鞄に入れて持ち歩くなどしないと隠し通すことができない大きさになっていた。
「ありゃなんのためなんだ?」
と聞かれるが自分には分かりようがない。逆流防止ならいくらでも別な手が浮かぶ。とにかく使用者の事情を無視した方法である、としか言えないのであった。
利用者が常に身につける道具なのに利用者のことが考えられていない。こういうケッタイな現象って、実は私にも身に覚えがあって、あちこちで何度か書いている。本屋時代の新型POSシステムのことだ。MS-DOSベースの、表示は地味だが処理が速く、最低限の仕事をきっちりこなして来たPOSがWindowsベースのPOSに変えられた時、現場のスピードは明らかに落ちたのである。レジのPOSが遅くなるというのは、より客を待たせることであり、レジ打ち要員のみならずお客さんにまで迷惑がかかるのだから社内でもブーイングに溢れたのだが「高機能」であること、「今はこういうのばかりだ」という開発側の事情などなどでどうにもならなかった。「高機能」って、単に売上データを直でエクセルに送れる程度のことで、要するに管理職に嬉しいだけの「高機能」でしかなかった。
経営者およびその周辺は「コストが安く」「自分に嬉しい機能がある」ということで嬉しいシステムだったのだろう。なのでそういう「商品」にはニーズがある。
しかしそれが現場及び客に負担を強いる。要するにどこを採るかで企業の誠実さ、倫理観が分かる。
そして、「IT化」なる一見進歩に見える掛け声とともに大々的に成されて来たのは壮大な「現場無視」であった。あの時のやるせなさは、自分自身PCに夢を見て来た身ゆえかなり大きかった。
「誰」が「ナニをする」ための道具なのか、そういうことが軽視されて来ている。効率と一口に言っても、誰にとっての効率かでものの評価は180度変わる。よいものは売れるから生き残る、ダメなものは売れないから生き残らない、という商品の自浄作用が働かなくなったのはそういうことだと思う。
今日の利用者さんのバカでかい、棒がかまされた採尿袋だって、誰かにとって得だからそのような形状になっているのだろう。けど、得している誰かは利用者自身ではない、ということを、もうちっと、まじめに考えてみる必要はないんかね?そして、そういうかたちで得をするのは大抵カネころがしなのが現代という時代なのだ。その果てに原発事故や政治腐敗があったんじゃないか、というのは大げさだろうかね?
うっかり、「カネころがし」という言葉をつくった。「土地ころがし」同様のニュアンスであると考えて頂ければだいたいこちらの意と同じになる。米どころである宮城に最終処分場つくる計画を建てて、農業で食ってる県の反発を食らっても50億円出せばおさまるべ、みたいな、すべてカネ基準でことを動かす連中のことだ。現場を知らないのに現場の「面倒をみなさい」と任されてしまい、カネを動かす力と上から目線にしかアイデンティティを持てなくなった、カワイソウな人たちのことだ。