「国民主権」ってこういうことだと思うのだが。

国民主権ってさ、国民という名のみなが国という組織を好きに動かすって意味以前に、国民みなのために国という組織があるってことだと思ってるわけよ。なーんか、国民の意識を高めてどーたら、みたいな意見を聞くと、あんたら結局「政治でナニをしたいわけ?」と聞きたくなってしまう。国という組織を動かして、「どうしたいわけ?」
「意識の高い人たち」が国家とはどうあるべき、とかギロンできる場所があり、それを国民みなが関心を持って眺め、声援を送っている、みたいなことをイメージしてたりしないでしょかね?
国民はそれほど「ヒマ」ではないと思うのだけれど。
みんなのため、とか言っても状況によって偏りが出るのは当たり前、そういった時にじゃあ落としどころはどうしましょうか、とか、どーしてもみなに損害が出るからみな均等に泥をかぶるようにしましょうか、とか、そういうのを決めたりするのが「民主主義国家の政治」だというのが、おいらの持論であったりする。
要するにネット民が嫌う傾向がある「リアル」が滞りなく流れるようにするための、みなの「生活」をバカみたいな連中に好き勝手させないための、装置でしかないんじゃない?民主主義国家って。それ以上の仕組みって本来必要?
なんかさ、「意識の高い」みたいな言葉を使って悦に入っている人みるとさ、「オレはこんなに政治のこと知ってんだ、この世の仕組みが良く分かってる特別な人間なんだ。それなのにみんなそういう話を無視した上にこの俺様をけむたがりやがって」みたいなルサンチマンがあるんじゃねーの?と斜に構えてしまう。自分の悪い傾向だと自覚しているから口に出さないようにしてるけど。
で、そういう人が政治の世界に実際入って行くと、自分の得意分野である「そーいう世界」を守ろうとするんじゃないか。やらんでいい政策を次々に打ち出して、結局国民みなという規模で煙たがられるんじゃないか。
どうもそういう出自の政治家や官僚が多いんじゃないか。という邪知が止まない。組織を強靭にしよう、なんて発想は機能集団に独特なもので、ただ生まれただけでその国の一員とされてしまう「民の集合」としての国家に必要なものだとは思えないんだよね。なのになんで「日本は一番でなければ」みたいな発想が出るか。なーんかやっぱり、そういうルサンチマンが根っこにあるんじゃねーの?となってしまう。だからおいら、ケネディって嫌いなんだよなあ。
民の、どーでもいいような生活が滞りなく流れるしょーもない時間こそが平和。けどそんな平和の中だから自分らは顔を突き合わせる目の前の連中と本気で戦えて来たんだよ。なにかにつけて国の事情なんかを背負わされてみなさい。セカイ系に逃避するカワイソウな人が増えるだけだ。当たり前にあったはずのみなの良心がひんまがるだけだ。実際、そうなって来てるじゃない。
最初に自分の生活があって、それを守るという意識があるからこその政治参加なんじゃないの?生活よりよーわからんイデオロギーや世界観(笑)を優先させちゃうような連中がかじ取りする国なら、そりゃ国民との温度差も出るよね?国民みなにシカトもされるよね?国民は忙しいし、したたかだから、あたまでっかちの政治家が「無視するならひどいことするぞー」とアホな増税始めても、それでも無視しちゃうわけだよね。
そういうことなんじゃないかなあ、と思うわけ。
「人間の進化」とか「社会の進歩」とか、そういうご立派で気色悪いもんを目指す「機能集団としての国家」にどこか、憧れちゃってる人って安倍信者はもとより反体制の人にも多いと思う。少し考え直してみないか?