常識人の選挙。

京都府知事選が例によっての投票率だったらしい。
そりゃしょうがない、と思わなくもない。けど選挙で結果を出さない限り今のムチャ振り政権は終わらない。何も変わらない上に、無効票は現体制の承認としか扱われないのだから笑ってられない。
だから考える。要するに今、「政治に関心を持つ」ということのハードルがやたらめったら高くなってしまっているのではないか?ニュースや新聞ではマトモなことは伝わらないから、とか、そんなことではなく、もっと根源的なレベルで。
冷たい考えだが、日常を必死で生きる個々人は福島のことなんかに興味ない。慰安婦も中国も然り。事実を心に留め、あるべき道を選び出すためにはそれらすべてに関する見識が必要、なんて言い方をしていてはそりゃ、「そーいうのは好きな人でやってよ」となっても無理はないと見る。じゃあ国政に対するなにかしらの姿勢を持つために最低限の「気持ち」とは何なのか。
自分と自分の周りが、常識的に人生を全うできる体制であってくれ、という願い。
これに尽きるんじゃなかろうか。
マトモに考えれば、「南京虐殺」で死んだ人がたとえ一人だろうと、国という組織の意向で誰かが殺されたのなら、それは国が正式に詫びるのが筋。慰安婦も同様。その解釈にまつわるぐっちゃらぐっちゃらした議論に付き合う必要なんてない。組織の都合で誰かが酷い目に遭うということに対する怒りを、自分らは当たり前に持っている。それだけでいい。「偉い人にはいろんな事情やものの見方があるから」なんて遠慮することなんてない。
がんばった人、何かを作り出した人にはそれなりの報酬があって欲しい、というのも誰だって思うことだろう。日がな汗水垂らして暮らしている人の町が、「ボロい商売」にうつつをヌかしてた連中の振り撒く放射能で住めなくなったとなれば誰だって「そりゃ違う」と思うだろう。原発再稼働に反対するのにそれ以外の理由や見識なんて必要ない。政治の世界は複雑だから、なんて考える必要は全くない。
教科書問題だってそう。あんたら自分に「愛しなさい」と強要して来る組織を信用できる?それはとても痛々しいことだ、という感覚があるでしょ?それ以上のどんな理屈が必要?つーか、そんな痛々しい日本になって欲しいと思う「愛国者」なんているの?
何をそんなに、むずかったらしく考える必要がある?眉間にシワ寄せて、なんかもっともらしいこと考えてるつもりになってる人たちなんて、いつの時代もうさんくさいもんじゃないか。
Twitter見てると知識人以外もの言っちゃいかんような気分になる。ああ世界は大変なんだな、と、思う。けど自分は自分、でいいのが選挙ですがな。人が、みんながよく生きて行くための良心を問うのが選挙ですがな。よくわからん知識にまみれる必要なんてない。
自分の常識と、良心を信じて、選挙行こうぜ?誰が消費税を上げて、誰がウハウハ状態なのかくらい、みんな知ってるでしょ?あれほっといていいと思う?ご立派な思索なんざ必要ないんだっての。