周りに頭を下げてもらえる人には頭を下げてもらえるだけの何かがある

脳味噌が働かないので脳内垂れ流し。
コートニー・ラヴの名を久々に見たと思ったら例のマレーシア航空消失の件だった。売れなくなったアーティストの辿る道として「トンデモへの傾倒」ほど空しいものはない。まあ、好きだったわけでもないのでそんなにダメージはないが。それにしても「カートを殺したくせに」なる恨み節が未だに聞こえて来るのはどうしたことだろう。第三者の被害者への無闇な自己同一化のみっともなさ(この場合「被害者」ですらないのだが)にはちょっと、他人事じゃない感じを受ける。原発反対フクシマ返せで声を上げている人も、なんの当事者意識もない人からはこんな風に見えているのだろうから。
今週のAERAはなかなかおもしろい。自民政権批判を軸に据えた上でヘイトの問題なんかも扱い、日本人と韓国人の夫婦のインタビューを載せてたりする。やはり、異文化なんだという当たり前の現実再認識だが、それがとても悲しくなる程度に自分は政治モードになってしまっている。改めて、あたりまえなんだ、と、書いて置く。自分のためだ。
それにしても、現政府がやたらと口に出す「国益」という謎の言葉よ。少なくともオレは一部富裕層がより儲けるようになっても嬉しくないし、彼らには血税のフォローによって自分らの暮らしが成立しているという自覚はなかろう。安倍たちの言う国益の「国」はどこの国なんですか?
そういえば、最近このブログを開いても「成功した経営者が絶対教えない秘密のノウハウ」なるAd広告が出なくなった。「会社は業績こそすべて」「社員はみな道具」などと小学生みたいなことが書かれているアレがなぜ自分とこのブログにしつっこく表示されたのかよく分からんが、なくなったことにはホッとしている。例えば自分がそういう経営者の下で働いていたなら、自分はその経営者に頭を下げないどころか敬語すら使わないだろう。その業績のための部品として雇われただけなら、言ってみれば自分は最低限の賃金を盾に使われてやっているだけということになるし、愛社精神などその社内文化に涵養されるはずがない。ドライな関係がお望みなんでしょ?こっちもそうするだけだわさ。人から頭を下げられる人には、下げられるだけの何かがあるってこと。社員を人として扱わないような経営して、絵に描いたような「社長」としての格を得られると思うなら甘いっつーの。テメーらに入るのはカネだけだ。多くの投資家にも言ってやりたいことである。
昨日のバンドマンくんのせいで、吉田拓郎をなんだかんだで聴き返している。なんだかんだでいいもんはいいなー。けど、スタジオ盤のアレンジされまくった名曲より、生ギター一本でがなりたてるように歌う拓郎が好きだった。「フォーク」への愛着ではない。「ニューミュージックへの道を拓いた功績」なんかより、オレは彼の生声が好きなんだと再確認。つーか去年、親子ほどにトシの離れた「クラスメイト」とカラオケに行った時「唇をかみしめて」を歌ったら「演歌」と言われ、ショックのあまり民生ちゃんが生ギター一本でカバーした同曲をYoutubeで見せてやったら「かっこいい」と言われ、要するにニューミュージック、歌謡ロックがあれほどの雑食性を示しつつも、実は根っこに泣きのギター荒ぶる演歌の心を宿していたことに気付かされたこともあって。
「不条理ギャグ」が吉田戦車のおかげで大ブレイクしていた頃、劇団健康を旗揚げして人間の情念とか社会の矛盾とかそういうのとは一切無関係の舞台をつくっていたのが有頂天のケラだ。今はケラリーノ・サンドロヴィッチとか言う名前で活動している彼が東京オリンピック決定にショックを受け、震災の被災地に寄付をしているというツイートをするたびに驚かされている。「政治サイド」のマジメな演劇がイヤな連中が必死こいて持って来るのがケラの戯曲だったことを思うと何とも言えない。そういう時代であることを無視できなくなったのか、それともトシ相応に、老いたのか。