餅は餅屋、みたいな話

ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会(仮)」というのができている。
https://www.facebook.com/antifapublishing
始めたのは某出版社の方で、以前おいらが元書店員として「ヘイトを助長する本屋を潰せ」と叫びだしたbcxxx2さんとやりあったツイートも見ていて下さった。いくつもの大手出版社から有志が集まっているとのこと。おいらがブツブツ言うまでもなく、そういう動きが出版業界の水面下に胎動していたという事実がとても頼もしい。同時にそっち方面の「プロ」ではなくなってしまっている自分が少々情けなくもある。言論の自由だなんだ言っても、やはり人の立場によって「そのことを説得力を持って言える人と言えない人がいる」というのは厳然たる事実。私はもはや出版業界の何かを背負って話ができる立場ではない。
で、本題。今回書きたいのは例によってTwitterで見かけた話。「政治について何も言わない」ことを積極的に肯定するバンドマン?がいた。
「音楽家が政治的な主張をしたら終わりです。政治家に任せて下さい」
世の中には「政治的なメッセージソングを歌ってればそれは高尚な音楽」みたいなカンチガイをする人がいて、そういう人に対してはこの言説は有効なのだが、今の時代にこれ、どうなんだろう?と、考え込んでしまった。
尾崎豊が「この支配からの卒業」とか言い出して、同級生たちがその気になって支配だナンだ言ってたのを高校時代のおいらは「アホか」と公言して煙たがられていた。今で言うところの「中二」を煙たがる気持ちに近い。おまえらが何を「支配」されてたっての?これだけ恵まれた環境で育って、やろうと思えばやれることが山ほどあって、そういう所を見てないだけじゃないか。と言い張る自分も負けず劣らず「中二」的ではあったが、間違ってはいないと思う。世の中には「なんか政治っぽい」世界に身を浸すだけでよくわからない充実感を得られてしまう人たちがいることは、その後の人生でうんざりするほど思い知った。ナントカ運動とかナントカ行動で熱かった安保時代への憧れも、ハーゲンクロイツの旗を振りかざしてヘイトデモに参加するのも、心の根っこでは同じじゃねえかよ、という気分が自分には根強くある。祭りに参加した時のような、運動会で騎馬戦に出た時のような、大人数で取り組む何かの流れに身を委ねた時感じる妙ちきりんな連帯感。
結局それが欲しいだけなんでしょ?だから恥ずかしげもなくバカなことができるんだ。周りに「同志」がいる間だけ。
けど、「表現」に至る気持ちというのがある。流れに任せて心を解放するのとは明らかに違うそれは、自分の中で吐き出さずにいられない何かを、たとえ雑踏の中で一人で立っている時でもかたちにせずにいられない。そんな初期衝動から自分の言葉で始めた表現なら、少なくともおいらはそれを100%支持するだろう。音楽だろうと舞踏だろうと小説だろうと演劇だろうと、それこそが何より貴重なのだと思っている。
そして、尾崎豊の時代ならともかく、今は国家やら政治やらに個々人がいわれなき干渉をして来る時代。「表現」に至る初期衝動に政治からのリアクションが含まれていたとしても何の不思議もない時代だ。カルチャークラブの「センソウハンダーイ」やUSAforAFRICAを笑殺したおいらだってそれくらいは分かる。そしてどうしても思う。「真摯に表現に向かう者は、それがどこへ向かう表現であろうと尊重されるべきだ」
以前の日記でこのようなことを書いた自分だが、やはり彼に賛成はできないようだ。
センソウハンターイはダメで「聴け、鮮血滲む大地の歌を」ならOKだというのを理論的に説明する言葉を自分は持っていない。完全に主観である。表現者が真摯であったかどうか、その人の根源から叫べているかどうか。けどそういう基準は、例えば音楽ならリスナーひとりひとりが持っているもんじゃないかい?それは「政治的な歌詞だから」と一元的に決められるものではなくって、例えば今や「プロテストソングの旗手」みたいな扱いを受けているソウルフラワーユニオン中川敬は「極東戦線異状なし?」を作ったとき「これはオレの嫌いなメッセージソングじゃないか」と数日悩んだ上でリリースしている。曲や演奏者の持つたたずまい、言葉がどこに向かっているか。オーディエンスとの間にいかなる空気が生成されるか。歌詞カードからコピペするような思考ではなく音楽を「経験」する中で見えて来る自分なりの基準を論理的に、一元的に語ろうったってムリなのさ。つか、あっさり語れてしまえるならわざわざ楽器を持ったりしないんじゃないかね?大抵の人は。
「政治家に任せてください」の彼もバンドマンならそういう思考がないのかなあ。つーか、彼が敬愛している吉田拓郎だって、広島大のバリケード内や、ベトナム戦争当時の岩国基地なんかでわざわざ演奏してた。「この国ときたら賭けるものなどないさ」「この国の見る夢を静かに眺めていればいい、それだけでいい」とわざわざ歌ってたりもする。拓郎のやらかして来たこの「わざわざ」をやらずにおれなかった「気持ち」には興味はないのだろうか。
やはり自分が「国」「政治」とどうしても無関係でいられない現実を、誰もが一度じっくり考えてみなければならないのかもしれん。