本気で反吐が出そうな丑三つ刻

燐光群という劇団の「レフトハンドマシーン」という作品にこんなセリフがある。
「法律は誰かを罰するためにつくられる」
当たり前に聞こえるかもだが、それまで罰する法律のなかった犯罪に手を染めた男が語る台詞として聞けば、誰でも合点するところがあるだろう。
前提として体系づけられた社会的正義などありはしない。どうしても罰せずにおれない何かに社会が直面した時、常にアドホックに付け足されて来たのが法律だ。こういう実感に至ったとき、表向き秩序立って見えた人間社会が、つまるところ暴力によって成り立っているというアングラ演劇的テーゼに飲み込まれて行く。
1993年という平和日本の猖獗みたいな時期だったから、あの手のテーゼは反体制っぽい世界に興味ある呑気なサブカルくんや、一人で見えない敵と戦ってるデンパちゃんにしか響かなかったのだろうが、やはり今、このご時世になって改めて噛みしめてみると不思議な実感が籠っている。ちなみに作・演出の坂手洋二はこの作品で岸田戯曲賞を取ったはず。そのわりにはちっともあの空気を感じた者たちが今を戦っている様子が見えない。社会派だナンだとあの劇団を担ぎ上げてた人たちはどこいっちゃったんだろう。坂手洋二自身は今、何を感じているだろう。
そんなことはいいのだが、とにかく、法律にしたって根っこにあるのは人の価値観であることは再確認すべき。人を殺すのは悪いことだから罰せられなければならない。けど人を殺すのは悪いことだ、という価値感は人間の感覚がルーツ。すべてが理屈で説明できることではないことであることを今一度、噛みしめて見る必要があると思うのだ。
役者という生き物は台詞を読むことで会話?を成立させなければならないぶん「お約束」を嫌う。例えば「愛してる」「私もよ」というやりとりひとつ。「愛してる」と言う役者が、相手が返す「私もよ」を知っていては劇空間が成立しない。無論役者として知ってはいるのだが、現実にそのやりとりをする男女のように、自分の「愛してる」という呼びかけに女がどう返して来るか分からないドキドキを、呼びかけずにいられなかったトキメキを、体のなかに充満させていなければならないのだ。そういうテンションのない芝居を「お約束で芝居してやがらあ」と彼らは嫌悪する。そして、台詞を体に染み込ませ、相手の言葉に体が反応するまで、その反応が脚本と同化するに至るまで彼らは練習を怠らない。それが美意識になっている。
いや、そんな例を持ち出すこともないか。好きな女の子に「『あなたがすき』って言ってみてくんない?」と頼んで、言ってもらった「あなたがすき」に有頂天になれる奴というのはバカか下衆野郎だ、という、ただそれだけのこと。
けど、そんなんでも喜べてしまうクズってのはいるんだな。というのが要するに今の日の丸強制であり、愛国教科書なのだ。
あれを巡ってさまざまな論が噴出している。Twitterは大騒ぎである。けど、たぶん、いかなる「論」をもってしてもああいうバカな動きは止められないのだろうと自分は思っている。あれを正当化しようとする連中のふりかざす「論説」がおもいっきり上滑りしてるのと同様、あれに反対する「論説」も結局のところ、問題の根源に届くことはない気がする。
こどもたちが自分の目で日本という国を眺め、自分の美意識で「この国すきだよ」と言ってもらってこそ嬉しいはずなのに、あれやこれやと搦め手で洗脳し、パブロフの犬よろしく習慣化させることで言わせる「日本好き」で喜べてしまう「国」というのは、これはもう美意識とか生理的なレベルでダメダメだということ。それは近親相姦のタブーみたいなもんで、善悪とか正偽といったレベルの問題ではない。
これまで発達してきた社会科学すべてを否定するような言い方で申し訳ないが、人殺しは死刑同様、ああいう手合いを忌避する文化、価値観というのが必要だ。その上で法制化して罰していいレベルだと言い切ってしまいたい。
論だけではない。人間社会には美意識が必要なんだよ。