ファシズムは生存権への反動で生まれるのかも知れない

ワイマール憲法下のドイツでファシズムが胎動していたことを思うに、「要するに生存権への反動がファシズムなんじゃないか」と思ってたりするのだが、ググってみてもあまりそういうことを言ってる人がいないので、ちと書いてみようと思う。
「鳥だって好きに生きているのに、オレたちはなんでこんなに縛られているのだろう」みたいな台詞が確か白戸三平の忍者漫画にあった。こんなふうに、自由権というのはわりかし、人間社会のみならず、自然の摂理として見てもイメージしやすい概念である。しかして生存権って、わりと自分の中の感覚では理解しがたいところがある。
「あらゆる人間には最低限の文化的生活を営む権利がある」
文学的テーゼとしても宗教的な教えとしても使い古された感があるが、それを「当たり前のこと」と意識するのにはそれなりの人付き合いと、それなりの教養が必要になることは確かだろう。好き勝手生きて来た人類という生物を、権利というかたちである意味「方向付け」したのが生存権だ。
例えば自由権というのは極めて少数の支配階級へのカウンターとして生じた。しかし生存権が生まれたのは産業革命以降の絶望工場的な労働環境の中であり、資本家や企業の運営者の絶対数は自由権を「生んだ」支配階級よりかなり多い。王を倒すような革命で倒してしまうと、次の日からの暮らしにも困ってしまうような人たちでもある。せっかく「生まれた」生存権を、心から必要とする人の割合は自由権より確実に少ないのである。
なぜ、「あらゆる人間には最低限の文化的生活を営む権利がある」のか。端的に説明しようと、私は結構前から頭を捻って来たのだが、未だに「だって必要じゃん」くらいの説明しかできない。「必要じゃん」と思えるのは、人は助け合って生きていかないといかんもんだというこれまで生きて来た実感から導き出されるものでしかない。
今さらではあるが、生存権というものの根拠というのは、かくも説明しにくいものなのである。
さて、そのような権利に疑問を持つ人がいたとする。オレはこんなにがんばってるのに、奴となぜ給料が一緒なんだ?みたいな疑問がその端緒。がんばってるのが労働者だったりすれば、敵は上司であり会社であり体制なのだが、たとえば企業の経営者がわが社の不振にストレスを溜めた時、その怒りの矛先が例えば在日外国人や生活保護者に向かうかもしれない。人間というのは基本的に他人の痛みを理解しにくい動物だから、自分と属性が違う連中の笑顔に「不公平」を感じてしまう瞬間は誰でもある。そこに差別が生まれる。そこをついて例えば戦争したい政府が、別属性の者を「敵」として誘導した時、社会によって自分の優越を規定してもらわないと安心できない人たちが乗る。
生存権というのは別に共産主義ではないから、最低限度の文化的生活以上は求めないのだが、その最低限度すら許せなくなってしまう。「オレはあんなやつらと一緒じゃない」ことを、社会に認められたくなってしまう。
こうやってハマって行くのがファシズムなんじゃなかろうか。
例によって論旨がぐちゃぐちゃな文章になってしまった(要するに自分にもまだ飲み込み切れていないのだろう)。しかし少なくとも現在の日本、戦時中の日本、そしてナチスドイツにおいて、ファシズム生存権は対概念であるようだ。つまりファシズム打倒というのは、あらゆる命の存在を寿ぐ(とか言うと宗教みたいだが)生存権の心からの普及を意味するとは言えると思う。
日本人が、分かっているようで分かりきっていない生存権という概念を文化の基底にまで染み込ませるように、やはりこれからしみじみ、考えて行く必要があるだろう。
(追記)
どーでもいい話ではあるが、日本国憲法生存権を盛り込もうと奔走した鈴木安蔵Wikipediaをなんとはなしに眺め、その出身地が「福島県相馬郡小高町」であることを今さら知った。なんかもう、日本国憲法にとってここ数年の動きってひたすらジリ貧やね。