本を破く人へ。

アンネの日記ってのは言ってみれば文学作品で、かなりの推敲を重ねている。しかし文学作品を破くってのは一体どうなんだろう。歴史書ならともかく。
こないだの東京美術館や百田の件で書き足りなかったことなんだが、
「いいものはいい。いいものは主義主張や立場を超える」
という信仰に似た気持ちが、おいらには未だにある。平和な時代の戦後日本で、主に音楽や文芸の世界で言われてきたこと。アニメかなんかで戦争を歌で止めるみたいのがあったでしょ?いい作品というのはその歌のような力がある。アンネの日記に感動してしまうネオナチがいてもいい。永遠の0を読んで左翼運動に目覚めるネトウヨがいても俺は笑わない。大江健三郎を読んで右翼の世界に身を投じたくなったとしてもその人は決して「間違って」はいないのだ。だって、本気で生きる人の姿というのは立場を超えてかっこいいものだから。ネットでのやりとりだと見えにくいけどね。源義家安倍貞任の逸話知ってるでしょ?日本人なら。
研ぎ澄まされた歴史観が争いの原因を取り除くように。
人の心を研ぎ澄まして、より多くの作品に触れて欲しいんだよ。右の人も左の人も。
糞みたいなあまったるい「メッセージソング」なんだけど、なんか曲が癖になったようなこと、ない?
平和こそ、と思っているのに、なんかノリで「ジークジオン!」とか言ってたりしない?
中国は変だダメだと繰り返した後で起動したゲームは「三国志」だったりするんじゃない?
そういう気持ちを自分の中に確認できるってことは、立場の違う人の気持ちも理解できるってことだ。逆に「戦争反対なんだから兵器かっこいいと思ってる自分なんてダメダメ!」と、煩悩をはらうため必死で滝に打たれる修行僧みたいになってると、できあがるのは自分だけ正しいという不気味な人間だろう。
そんなもん矛盾でもなんでもないのだよ。心に決めた相手がいるのにテレビに出て来る芸能人にうっかりときめいてしまうのとおんなじだ。矛盾と決めつける方がどうかしている。人の心のキャパはそんなに小さくはない。
時にはある方向にに突き進んでしまう時だってあるだろう。けど、渇望や衝動なんていつまでも続くものではないし、あれ?と我に返る瞬間が誰でもあると思う。そんな時に、自分の中にあるさまざまな気持ちを外から眺められればいい。自分の身の振りに納得できなくなったらいつでも止めればいい。そうすることで違った立場の相手が何を意図してものを言っているかも分かるようになる。
そういうもんじゃないかい?そして、そういうことの契機になるのが芸術であり、物語ではなかったかい?(自分の作品がそういう存在になれるチャンスをわざわざ自分の言動で潰している百田というのはそういう意味でもバカなんだが)
本は、破るためにあるわけではないし、破るより読む方がよほど簡単な構造をしている。正しいか、史実かなんて問題じゃなくって、あなたがたの性急な心をほぐし、広げてくれるものだ。
まずはいろんな本を読んで、おっきな「人間」を自分のものにして欲しい。そうすりゃ論理だ政治力学だ経済だだけでこの世が動くわけじゃないことも分かるし、カネに汚い姿の醜さも分かるようになる。護るべきものだって見えてくる。自分が右か左か、なんてそのあとで決めればいい。
そういうもんだ、と、思っている。