「永遠の0」を憎めないワケ。百田尚樹を許せないワケ。(1)

Twitterで「永遠の0」についてやり合ってしまった。
これについては都知事選開始の頃数名の人から話を伺って以来、ずーっとまとめて書きたかったんだけど後回しにせざるを得ずにいた。単にまとめきれなかったからだ。いくつか論点がある。けどここで書かんでいつ書くんだ?みたいな気分になって来たんで、例によって言葉足らずながらまとめてみようと思う。
とりあえず、「0」を喜んでるネトウヨにも叩いてる人たちにも作者にも安倍にも言いたかったことは、
あんたら娯楽小説にナニ期待してんだ?
ということ。
なるほど百田は文体がちゃちい。けどあれより文章そのものがもっとヘタクソな、だけど立派な作家は大勢いる。船戸与一の文体なんてすごいぞ。
戦争の描き方が甘い。確かにそうだ。しかし「戦争について知りたい→小説を読もう」ってまずそこから変でしょ?そういう誘導をした奴らがいるんだよ。叩くべきはそいつらであって作品ではない。
特攻は物語として描くべき題材ではない?戯作者という存在をアマく見過ぎだと思う。これまでどれだけ「人を殺す」シーンが娯楽として成立して来たか。人間という生き物はそういうヘンなところで楽しむ生物だ。漫才が差別から成立している、なんて誰もがしったかぶる受け売りと同様。人間の欲望をすべからく認めた上でこそ娯楽物語は成立して来たし、自分らをそれを嬉々として受け入れて来たのだ。戯作者は人の欲望すすってなんぼ。だから「親の死に目に会えない」と自嘲しながら人の愛も憎もケロリと描いて来たんだ。今の40〜50代ならまず一度は観ている「さらば宇宙戦艦ヤマト」なんてとんでもないよ?幕切れが特攻なだけでなく、彼らは「宇宙のどこかに助けを求めている人がいるから」という理由で、地球の政府から反逆者扱いされてまで飛び立つのだ。今で言えば集団的自衛権におっそろしく似ている。これはさすがにいかがなものか、みたいな声が当時も出たが、世論をゆるがすまでにはならなかった。「たかがアニメ」だったからだと記憶している。
だったらさ、「たかが娯楽作品でなにをマジになってんだよ」でいいじゃん。
…確か、最初に「0」について書きたかったのはそんなことだったと思う。
しかしまあ、これは「平時」のはなしだよなあ、「戦時」に近い今現在にこの論は、確かに呑気過ぎなんだろうなあ、ということを、今日おいらが絡みまくった彼の話でつくづく、思った。
なので次は物語そのものについて触れる。要するにまだ懲りていない(つづく)