宇都宮けんじと若者たちに期待する。

最初はね、思ってたんですわ。宇都宮けんじ大島で話をきいてきました宇都宮けんじ看護士の問題を聞いています宇都宮けんじ殺処分されるペットの問題に取り組みます。結局あんたなにがしたいんだ?って。
もちろん、そういう風に儚い民意ってやつを掬い上げてくれる政治家がいたらいいけど、そりゃ無理筋だって分かってる。ただひとつの福祉政策でさえ実現にどれほどの労力が必要なのか、ということを自分らは知り過ぎているから、やっぱりどこか、斜に構えているところがあった。
けど、ああいったある意味バカ正直なことをやる候補者がいたおかげで、実は自分らは政治という世界に対して、これだけ言いたいことがあったのだ、という気付きがあった。それが拡がった。若者は、自分らおっさんみたいに政治に対して斜に構えることなく、素直にものを言える場を持てるようになった。
それだけでも、宇都宮けんじがいたことの価値はある、と、思うようになった。
もちろん原発の問題は常に待ったなしだ。放置していい問題だなんてカケラも思っちゃいない。けど、あれは一旦止めます、くらいでカタがつくような問題ではないことも分かっている。社会全体のなにかが変わらなければ、原発という利権構造を破壊することはできない。技術進歩か、ニーズの大変化か、とにかく自分らの生活が変わってしまうような何かが起きない限りは無理なんじゃね?と思ったりもした。「細川特区はいい特区」と言う人たちも、なんとなくそれが分かっているからとって付けたような経済政策を捨てられないのかも知れない。
けど、そこで新たな経済論に賭けたり、輸入したての概念にすがったりするくらいなら、自分は宇都宮けんじがまがりなりにも体現しようとしている「民主主義」に賭けたいと思う。
「民主主義」の味を曲りなりにも味わえている若者は、俺の世代のような平和ボケではない。目の前で起こるレイシストの暴力に体を張り、すぐそばで起きた原発事故に身の危険を肌で感じて、自分らの心に当てはまる政治行動に飢えていた。「あんまり平和な世の中じゃかっこわるすぎる」なんて歌に共感を覚えてたような暇人でもなければ、「大学は遊びに行く」なんて言えちゃえた甘ったれでもない。彼らは政治がどうにかならない限り自分らの一生はろくでもないことになるという「事実」を肌で感じて来た。それを受け止める者として宇都宮けんじが現れたのなら、こんなに幸せなことはなかろう。
自分らの世代が足を引っ張らないように、目を光らせていようと思うのである。そして、彼らが知らないであろう平和の味を、忘れないように伝えて行こうと思うのである。
細川氏の評価とかはまた別な話。今脱原発を唱えているすべての層が力を合わせることができるようにしていく必要があるし、ありとあらゆる層を巻き込んでいかなければならないことも重々承知しているよ。