労働問題のむずかしさ

特区問題が脱原発陣営で取り沙汰されていた。いっちょまえに「脱成長と特区が並び立ってるのはどういうわけだ!」などと湯川れい子に噛みついたのはオレだが、これはもう何をいまさら、な状態であったらしい。タイミングのずれた合いの手ほど恥ずかしいものはない。またひとつ忘れたいことが増えた。
さて、特区は言うまでもなく労働問題である。
そのむずかしさは、日頃働いている会社組織での、立場立場が持っている不満すべてがそこに集約されるからだろう。三宅雪子までもが「自助という言葉に対してのリベラル層のアレルギー反応」なんて穏やかならぬ言葉を使っている。上は「会社の繁栄のため」下は「仕事の充実のため」そして中間管理職はそれに挟まれて「なんでもいいからストレスのない社会を」みたいなことになる。自分の生業、生活すべてがそこに集約されるわけだからそう易々とは会話が成立しない。下積みから、なにかしらのセクションを任される程度にまで経験して来た者なら、そこにいかに埋めがたい溝があるか、胃が痛くなるほどに分かるだろう。
これについては一つ、自分も勝手な理屈を持っている。またしても恥ずかしながらバラすと、「世に会社の効率化とされるものは、九割九分それまでの企業規模を維持する努力を捨てたいいわけだ」ということ。
小泉政権以降「経営コンサルタント」なるものが私の住む田舎町でも暗躍したが、彼らは「会社の利益」を上げるために効率化を唱えた。かつての中小企業なんて、なんの役にも立たないくせに職場でバカやっていつも笑われている女の子のひとりやふたりいたもので、みんな給料泥棒などと陰口たたきながらも結構うまく回っていたのだが、効率化はそういう無駄を一切許さない。ばっさり「削られた」。ニッチな本に詳しい連中はベストセラーやコミックに詳しい者より売上を上げられるわけがない。これも削られた。人件費が減ることで会社全体の利益は上がる。しかしその「業績」をもって多額のコンサル料金を得て経営コンサルタントが去った後、残ったのは「ベストセラーやコミック以外詳しい人なんていらない」という無様な書店の姿。その人ならではの仕事が奪われ、他店に対するアドバンテージが奪われ、結局なにかがあった時の競争力がなーんも、なくなってしまっていた。
ちなみにこれは「下」の者の意見である。「上」の者はそうは考えなかった。増えた売上でもって新たな事業に手を出そう。あそこのショッピングセンターが移転するそうだが新規店舗を入れられないだろうか。会社の更なる発展のために。今のままだと「何かあったとき」の蓄えがない。中小企業は拡大するしか生き延びる方法はない。
どちらも、正論ではある。だが、「上」が会社の発展を口にするとき、そこに流れる冷たい風のようなものはなんだったのか。失われた店舗の活気、固定客、品揃えは、社長他がやたらと口にする「地域の更なる発展」への逆行ではなかったか。効率化で会社が得たものはカネ。失ったものは「なにかあったとき」になにもできない社内体力である。当時の社員は私も含めほとんど残っていない。変わりゆく会社に胸を痛めていた「上」の人ですら、やめた。
今日Twitterを眺めていたら細川支持者が「細川の脱成長は資本主義を超えた価値観なんだ。ショミンのあれが欲しいこれが欲しいにひたすら応えようとする大衆食堂のオヤジみたいなのは本質的にこれまでの利権で動く政治と一緒だ」みたいなことを述べていた。さすがにブチ切れた。
経営コンサルタントや、世襲の会社の社長二代目あたりがしたり顔で述べる思想そのものじゃねえかよ。てめえらの部下は大衆食堂にすら行けない生活してんだよ。専門書も売上至上にされたせいで「あんな店もう行かない」って固定客ほど逃げたんだよ。店長でも手取り15万とかでなんとかやってんだよ。そんなもん「自助」だの経営努力だけで何とかなると思ってんのか?その上でのうのうと飯食ってるっててめえはナニモンだコノヤロウ。
流石にそこまで露骨に言ったわけではないが、恥じてはいる。三宅雪子が言った「リベラル層のアレルギー」そのもの。要するにオレは「下」の目線に完全に立ってしまっているらしい。「上」と「下」の間の川は、それはもう果てしなく暗くて深いのだ。
細川特区がどのようなものを目指すか、とても注目している。ただでさえ殿とか浮世ばなれとか言われてる人だから、こすっからい田舎の世襲の社長二代目みたいなことは言うまいし、「脱成長」という言葉に望みは繋いでいるのだが、結果的に同じものになるようなら、いかに脱原発の仲間だろうと、自分の好きな文化人が応援してようと、「いっしょにがんばりましょう」なんて呼びかけには応じかねる。
細川ブレーンに「上」も「下」も経験してきた者がいることを切に願う。