なぜ安倍政権が若い子にウケているか考える

「なぜ脱原発なのか」について今一度考えて欲しい。脱原発だけではない。なぜ安倍政権打倒なのか。なぜ戦争はいけないのか。なぜ三権分立でなぜ民主主義なのかを、実感を持って、自分の言葉で説明できるようになって欲しいのである。
小泉という人は歴代総理の概念をさまざまに打ち砕いた。「こう教えられて来たからこうなんだよ、こうしなさい」という因習から自由であった。私は彼のやった政策を一切評価しないが、その自由さにだけは共感を覚える。
「国家は三権分立じゃないといけないんだよ」「なんで?」
「そうしないと独裁者を止められないからだよ」「何で独裁者はとめなきゃいけない?」
「独裁者は国を自分の持ち物にして戦争を始めるからだよ」「なんで?」
国の姿についてのこういった素朴な問いにスラスラ答えることができる人はいるだろうか。自分が持っている答えが「ただそう教えられてきたから」という程度の根拠しかないのではないか?と疑ってみた人はどれだけいるだろうか。
どうでもいいことのように思えるかも知れないが、そうやって世界の在りようについてひとつひとつ自分の答えをみつけるということは、ただ教えられるだけだった概念を自分のものにすることであり、自分のものになればその概念から自由になる。言われたから守るだけの人はただ守り続けるしかないが、自分なりの答えをみつけた人は「じゃあこれはこうしちゃっても問題ないよね?」という発想をすることができるからだ。小泉という人の自由さとはそれだった。その自由さになんとなく惹かれているうちに、戦後日本国が築いてきたものがガラガラぶっ壊されていくのを、自分ら大人はただわけもわからず見守ったのである。
いわゆる「ネトウヨ」の跳梁を許したのも、「戦争はいけないんだよ」「なんで?」「そう教えられて来たからだよ!理屈こねんな!」というだらしない親が多かったからではなかったか。
要するに自分らは、「民主主義」も「三権分立」も「平和主義」も、西洋から輸入したまま、それをまだ自分のものにできずにいるのだ。なんで?に対して実感を持って答えられる言葉を未だに持てていないのだ。
「そう言われたからそうなんだよ!」と言う大人を子どもは嫌う。子どもらは自分の親を信じられなくなった。そこに戦後、自分らの親のやったことすべてが「悪」とされ、ひたすら「なんで?」と問い続けるしかなかった石破、麻生、そして安倍あたりが世の中に「彼らにとっての答え」をぶつけ始めた。親からは教えてもらえなかった世の中の答え。子どもらはこの世には「説明しがたいけど大事なこと」がたくさんあることを知らない。だから親の世代の安穏とした平和を否定して自分らに分かりやすい答えを提示した安倍ファシズム政権に熱狂する。
当たらずとも遠からず、ではなかろうか。
戦争が終わったとき、「世界は平和でなければならない」「なんで?」に自分の言葉で答えられる大人はたくさんいた。原発がああなったとき「原発は止めなければならない」「なんで?」に自分の言葉で答えられる人は福島にたくさんいた。昭和が終わるくらいまでは、経験していない人に貴重な実感を与えてくれる文学、マンガ、映画がたくさんあった。今はなにもない。子どもらは分かりようがない。大人も分かったようで分かることができていない。そして現政府のおぼっちゃまたちは、世の中には答えられない答えを彼らに都合のいいかたちで「発見」してしまった。彼らは「教えられたからそうなんだよ!」で世を渡る「庶民」らに侮蔑を隠さない。「守るべきだから守るんだよ!」で保ってきた体制ルールを平気で無視できる。なぜ生存権が必要か、実感できるのは下流の家庭だけで、政治家には一切無縁の問題でしかない。だから福祉なんてあっさり捨てられる。
そんな安倍政権に対抗するには、これらすべての「問い」に安倍とは違った「答え」を持つ人が世に出るしかない。
名護に500億円という報道があったときのどーしようもない「気持」としっかりと記憶し、噛み締めなければならない。名護が勝った時の得も言えぬ高揚感を体に刻みこまなければならない。
東電会見の気持ち悪さも、募金や復興予算が使い込まれたと知った時の怒りも、同じ日本人の命が地震で10000人以上消えたときの恐怖も、経験して来たすべてを総動員して、あるべき国の姿をイメージしなければならない。安倍政権を打倒したいなら次の総選挙までにそれを世論にまで高めなければならない。「やつらは汚いから」「ウヨクだから」なんて瑣末なものではなく!

今日の脱原発陣営の悲しくなるような様子を眺めながら、こんなことを考えていた。